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2020-09-21 (Mon) 12:57

根室本線茂尻駅 高台に開設された茂尻炭礦の貨物駅

茂尻駅a01

空知管内は赤平市茂尻元町南2丁目にある、JR北海道の茂尻駅。
地名の「茂尻」の正式な読みは「もり」ですが、駅名の方は濁点を抜いた「もり」で登録されています。
駅の他に「もしり」の読みを採用している施設は見当たらず、日本郵政グループ公式サイトも茂尻郵便局に「もじり」のルビを振っています
しかし茂尻の由来はアイヌ語の「モシオマナイ」(訛って「モシケソマナイ」とも)であり、元々の語源に濁音の無い「モシ」を冠するので駅名の読みはあながち間違いではないと言えるでしょう。
モシ」は「島」を意味するアイヌ語で、具体的には茂尻駅から東へ約500m離れた、空知川に浮かぶ細長い中州を指しています。
そして「モシリ・シ・オマ・ナイ」は島の下手にある川」という意味になり、中州の下流にある空知川の支流、桂川を指す呼称だったのです。

茂尻は空知炭田の一翼を担った炭鉱都市・赤平の東部に位置し、ここもかつては茂尻炭鉱を抱える炭鉱町として栄えました。
しかも赤平市内では初の大型炭鉱だったと言われています。
当地で採炭が始まったのは1918年の事で、大倉財閥のトップ・大倉喜八郎氏自ら炭鉱開発を主導し、大倉鉱業㈱によって同年7月に「茂尻炭礦」が開坑しました。
1931年12月には大倉財閥から独立して茂尻炭礦㈱となりましたが、4年後の1935年7月には釧路管内の雄別炭礦鉄道㈱に買収されています。
なお、雄別炭礦鉄道は戦後の1959年6月に鉄道部門を分社化しており、これに伴い社名を雄別炭礦㈱に変更しています。
従業員数は1951年度がピークで3,116名に上り、生産量も1968年度には過去最大の510,000tを記録しましたが、政府の石炭合理化政策によって1969年9月を以って閉山しました。
その直前、1969年8月には雄別炭礦㈱から分離発足した茂尻炭礦㈱柏炭鉱が開坑し、地表の浅い炭層を採掘するも1974年10月に閉山しています。


JR北海道 国鉄 雄別炭礦茂尻礦 雄別炭鉱 茂尻炭砿 茂尻鉱業所 木造駅舎
茂尻駅a02

これで茂尻炭鉱の歴史に幕が下ろされた・・・と思いきや、1978年6月には道央興業㈱が茂尻真田炭鉱を開坑しました。
道央興業は赤平市字茂尻50番地16(現:茂尻元町北4丁目12番地)に本社を置き、観光バス、送迎バス(主に炭鉱従事員の通勤輸送)の運行事業を行っていた貸切バス会社です。
そんな会社が1975年に炭鉱経営を画策し、足掛け3年で開坑したというのですから結構な変わり種だと思います。
その後の1981年1月、歌志内市に本社を構える明円工業㈱に譲渡。
明円工業は1982年4月に子会社の明円炭鉱㈱を設立し、同社に石炭採掘権を譲渡しましたが、炭鉱名は従来の茂尻真田炭鉱を踏襲しています。
1983年11月には新たに採掘鉱区を取得し、採炭規模の拡大を目指します。
しかし出炭は好転せず1988年7月、露頭炭806tの出炭を最後に採掘はストップし、1989年3月に石炭坑の廃止届を提出して閉山となりました。

他にも1983年7月に茂尻産業㈱が開坑した新茂尻炭鉱千曲露天坑があり、初年度は12名体制で17,512tを出炭しています。
書籍『赤平市史 下巻』(2001/赤平市)によると2001年時点では赤平市内に現存する唯一の炭鉱で、1999年度には40,008tを出炭しましたが、その後の経過は不明。
少なくとも2020年現在では閉山済みのようです。


茂尻炭砿岐線 大倉産業株式会社茂尻炭礦 専用鉄道 専用線
茂尻駅a03
茂尻駅まで専用線を敷いていた茂尻炭礦選炭場の風景
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.182より引用

茂尻駅は1918年12月、既に開業していた国鉄釧路本線赤平~平岸間に貨物駅として開設されました。
当初は旅客扱いをしない駅で、先述の通り大倉工業㈱茂尻炭礦が同年7月に開坑した事を受け、石炭搬出のために設けられました
以下に書籍『赤平八十年史』の記述を引用しましょう。

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 大正7年に下平岸(現、字茂尻)に茂尻炭砿が開坑し、同砿の石炭積出しのため同年12月に、茂尻駅が設置された。開駅当時の茂尻駅は旅客輸送を取扱わない、1車積み大貨物、いわゆる1車積みの石炭輸送のみの取扱駅に指定されていたために、砿の従業員や地区の人々は、依然として平岸駅か、上赤平駅を利用しなければならなかった。茂尻炭砿の開坑時に、農耕地を炭鉱に買収された人たちのなかには、炭鉱従業員をめあてに商業を営む人もいたし、また他から移り住んで開業する人もあって、現在の元町や桂町に市街ができて、一時はかなりにぎわっていたといわれている。

《出典》
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.281
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ちなみに大倉財閥のトップ・大倉喜八郎氏は釧路本線が開通する前、何と茂尻炭礦と函館本線砂川駅を結ぶ専用鉄道の敷設を計画していたと言います。
以下に書籍『赤平市史 下巻』の記述を引用しましょう。

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 明治22年に手宮ー幌内間及び幌内太ー幾春別間が北海道炭礦鉄道に払い下げられて以来、同社の新線は室蘭と歌志内まで延長され道内の主要地域の交通運輸部門における独占が続き、一方、鉄道網が一向に伸びないため空知川沿いの有望な石炭鉱区の開発が進まないという不満が起こるようになった。明治32年には、札幌区代表者2名による北海道炭礦鉄道㈱を買収して、国有化への請願が貴族院に出された。本州府県においても民間鉄道の国有化への要求が強まっており、明治39年3月30日に鉄道国有法が公布され、17鉄道会社のうちその第一着手として北海道炭礦鉄道㈱の買収期日は、10月1日と決定された。
 明治末頃には、既に歌志内村字モシリケシュオマナイ鉱区を持ち、石炭採掘を見込んでいた大倉喜八郎も、空知川沿岸地域への鉄道敷設を待ち望んでいた一人であった。即ち茂尻炭山より砂川停車場へ至る延長約13マイルの専用鉄道計画を出願したことが、明治39年12月20日付『北海道鉱業新報』に報道されている。

《出典》
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.p.181,182
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雄別炭礦株式会社茂尻礦 雄別炭礦茂尻礦 国鉄 茂尻駅 石炭列車
茂尻駅a34
1969年時点の茂尻炭礦社内施設及び社宅図
この地図は東西南北がほぼ正反対になっており、茂尻駅の南東に向けて選炭場の専用線を敷いていた事が分かる
選炭場の更に南方には坑外軌道のトンネル(宮下隧道)も伸びている
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.198より引用

この専用鉄道計画は結局、1913年11月の釧路本線滝川~下富良野(現:富良野)間の延伸開業によって取り下げとなり、その5年後には選炭場の近くに貨物駅を構える事となった訳です。
茂尻駅から選炭場へは約700mの専用線が敷かれ選炭場で石炭を積み込んだ運炭列車は室蘭港へと石炭を輸送しました。

茂尻炭鉱は赤平初の大型炭鉱で、開坑によって集落は急激に発展しました。
しかし茂尻駅が石炭輸送専用だった事から、暫く住民達は平岸駅や上赤平駅(現:赤平駅)の利用を余儀なくされました。
地元では茂尻駅の利便性向上を求める運動が起き、まずは1924年9月に食料品の到着貨物扱いが認められました。
2年後の1926年7月には遂に一般駅となり、貨物に合わせて旅客、手小荷物を扱うようになりました。

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 空知管内でも最初から大規模炭鉱として出発した茂尻炭砿は、開坑の翌年には手選炭場を増設するとともに、鉱業特設電気の架設、診療所の開設、坑夫社宅27棟の建設と、急速に起業が進められた。翌9年には水洗機を新設し、130キロワットの発電所が完成した。坑夫社宅も8戸建、または10戸建の長屋が大正10年より昭和4年までに毎年新築され、この期間に建てられたものは合計132棟におよび、労務者の急増に備えられた。なお、開坑の年の12月に上赤平駅(現、赤平駅)と平岸駅の中間に茂尻駅が開設されたが、当初は車扱い(1車のみの取り扱い)の石炭を積み出す貨物取扱駅であった。その後運動奔走の結果、同駅に魚菜到着貨物取扱認可(大正13年9月8日)を得、さらに大正15年7月15日に旅客も乗降する普通駅に昇格し、住民の足が確保されるようになった。

《出典》
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.196
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 さて、1車積み貨物のみの取扱駅として7年12月に発足した茂尻駅は、旅客はもとより、小口扱いなどの荷物の取扱いもなく、住民たちも、炭砿側においても非常に不便をかこっていた。旅客や小口扱いの荷物などは、すべて上赤平駅、あるいは平岸駅を経由しなければならず、炭砿側では茂尻駅を普通駅に昇格すべく運動を行なった。このため12年7月13日、札幌鉄道局から茂尻炭砿事務所長にあてて、「之ヲ改設スルニハ別紙圖面ノ通リ約一,六○○餘坪ノ増用地及停車場ヘ交通スル道路ノ新設ヲ要シ候ニ付右増用地無償譲渡及地外道路開鑿ノ義御取計ヲ得度及御會候也」と申し込んでいる。炭砿事務所ではただちに本社に具申、7月20日に認可を得たので、同月27日炭砿事務所長と赤平村長連名で札幌鉄道局長に回答、ならびに請願をした。増用地無償譲渡と道路開削について、もちろん異議はなく、速やかに着工願いたい旨を回答し、請願者側の切実な要望として、次の3点を付して願い出た。
 一 炭礦方面より直接停車場に交通し得るよう新設道路の設計を變更されたい
 二 停車場道路を若干東方に移設して、貨物ホーム行道路を兼ねさせるよう設計を變更されたい
 三 道路の開鑿は關係部落民の自治に委されたい
 翌年13年5月21日、札幌鉄道局長より停車場用地役1,719坪を要する見込みで、異存がなければ承諾書を提出するようにとの照会があった。炭砿では社有地は1,125坪に民有地(滝川町三浦美弥子所有594坪)を買収し承諾書を提出したが、鉄道省は茂尻駅改設に消極的であったため施工は望み薄となった。このためせめて魚菜関係のみでも小口貨物取扱いの特認を受けた後も、普通駅昇格の運動をつづけていたが、14年10月にようやく工事着工の運びとなり、旭川市5条通り9丁目鶴間裕蔵によって施工された。茂尻駅が旅客も取扱う普通駅に昇格し、出札掛2人の配置を得て開業したのは翌15年7月15日である(この年の10月30日、赤平村にもはじめて電灯がつき、各市街地は一段と明るくなった)。

《出典》
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.p.283,284
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坑内軌道 坑外軌道
茂尻駅a04
茂尻炭礦奥万慶新斜坑坑口の様子
撮影当時は架線の無い馬車軌道だった事が分かる
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.196より引用

茂尻炭礦は採掘現場と選炭場を坑外軌道で結び、最終的に総距離は2,1kmに達したと言います。
『赤平八十年史』によると坑外軌道は開坑当初、馬車軌道としていましたが、1929年に架空線電車を導入しています。

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 開坑当時は川の両岸に露出した炭層に坑口を掘り、それぞれ坑口群を形づくり、炭層に沿って水平坑道を掘り進むいわゆる“狸掘り”からはじまったのである。大正7年から9年までの3か年に開設された坑口は、36か所の多きを数えた。しかし、9、10年ごろより上層立入や斜坑などに切替えて整備した結果、着々とその成果が挙がった。すなわち、大正10年には出炭11万トンに過ぎなかったものが、13年には20万トンとなり、15年には30万トンの出炭をみる、いわゆる“3段跳び”の飛躍を示す発展をつづけた。その後、鋭意坑口の集約化に努めるとともに、運搬関係の近代化を図り、開坑当時に馬車軌道によったものが、昭和4年にはトンネル(宮下隧道)を開削し、6トン1台の架空線電車を使用することとなり、同年12月26日には総距離2,116キロメートルにおよんだのである。このトンネルは、昭和13年2月の通洞線開通まで出炭運搬の主要幹線であった。

《出典》
赤平市史編さん委員会(1973)『赤平八十年史』(赤平市役所)p.p.195,196
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坑内軌道 人車 雄別炭礦茂尻礦 茂尻炭礦 坑内電車軌道 トロッコ
茂尻駅a06
茂尻炭礦の坑内軌道にて、人車に乗り込み坑底に向かう労働者達
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.183より引用

戦後の1950年代にエネルギー革命が起こり、石油が台頭すると石炭産業は苦境に立たされました。
そんな中、茂尻炭礦は設備の近代化と出炭能率の向上に取り組み、1963年7月から立て坑の開削に着手しました。
立て坑は1967年5月に完成し、深部採炭に向けた体制が整いました。
採炭技術の研究開発にも余念がなく、炭層を上から下へ水平に払う「シールド採炭法」を編み出しています。
出炭量は1963年度の376,000tから、1964年度の410,800t、1965年度の439,000t、1966年度の452,000t、1967年度の474,000t、1968年度の510,000tと年を追う毎に増加しました。
茂尻駅の貨物発送量も1965年度に過去最大の405,455tを記録しています。

茂尻の人々は石炭産業の活路が開けた事を喜びましたが、それも束の間、1969年4月に坑内でガス爆発事故が発生。
19名が死亡し、他に重傷者20名、軽傷者4名を出す大惨事となりました。
経営元の雄別炭礦㈱は当時、約70億円の累積赤字を抱えており、政府の石炭政策に乗って抜本的な合理化計画を実践しようとしていました。
しかし、この事故による復旧費・遺族補償費などが重くのしかかったために経営再建を断念し、1969年5月を以って全従業員を解雇。
同時に茂尻炭礦は休山状態となり、同年9月に石炭鉱山整理促進交付金を受けて正式に閉山となりました。

茂尻駅近くの選炭場は1969年8月、雄別炭礦㈱茂尻炭礦の一部鉱区を取得し開坑した茂尻炭礦㈱柏炭鉱に引き継がれました。
この炭鉱も短命で1974年10月に閉山し、選炭場の専用線も廃止されています。


JR北海道 国鉄 雄別炭礦茂尻礦 雄別炭鉱 茂尻炭砿 茂尻鉱業所 木造駅舎
茂尻駅a07

茂尻炭礦の閉山によって茂尻駅の貨物取扱量は急激に減少し、1976年2月を以って貨物フロントが廃止されました。
皮肉な事に貨物駅として始まった茂尻駅は、貨物取扱を無くして旅客駅に転じたのです。
1982年5月には小荷物フロント、旅客フロント(出改札・旅客案内)を共に廃止して無人駅となりました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。


木造駅舎 茂尻駅 国鉄
茂尻駅a08

駅舎は高台の上にあり、広々とした駅前広場とは1本の階段で繋がっています。
過去にこの階段の手すりに乗っかってスケボーに興じた輩がいたらしく、左右に「NO!! Snow board & Skate board」との注意書きが設置されています。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 大正時代 昭和時代
茂尻駅a09
木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 大正時代 昭和時代
茂尻駅a10

駅舎は1926年7月の一般駅化から存在すると思われる、古びた木造モルタル造りの平屋です。
玄関にはコンクリート造りの立派なアーチを据えています。
西側(正面右手)は駅事務室となっており、広めにとられている様子からも茂尻炭礦が操業していた頃の隆盛を窺えます。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 待合室
茂尻駅a13
木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 待合室
茂尻駅a12

待合室の様子。
外観を見ると正面左手に板で塞がれた窓があり、国鉄時代は待合室が更に広かったようです。
窓を塞いだ辺りは壁で仕切られており、しかも出入口を塞いだ箇所が見受けられるため、元々はコンコースと待合室を分けていたのかも知れません。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 待合室 出札窓口 手小荷物窓口
茂尻駅a14

手小荷物窓口と出札窓口。
こちらも板で封じられていますが、チッキ台と出札棚は往時の姿を留めています。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 待合室
茂尻駅a11

待合室の隅っこには・・・


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 待合室
茂尻駅a15

・・・経年劣化で汚れてはいるものの、大層立派な丹頂鶴の日本画が飾られています。
これも炭鉱が栄えていた時代の遺産でしょうか?


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り JR貨物 貨物列車
茂尻駅a16

ホーム側から駅舎を眺めた様子。
くたびれた庇からも年季を感じます。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口
茂尻駅a17

待合室とホームの行き来には、庇の下の通路を歩かなければなりません。
西側の出入口は駅事務室の二重玄関。
事務室の引き戸は板で封鎖されており、今や保線作業員の休憩所として活用される事も無いようです。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口 ラッチ
茂尻駅a18

駅事務室の玄関から庇の下を眺めた様子。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口 ラッチ
茂尻駅a19

改札口には黄色く塗装されたパイプのラッチが残っています。
その左右の床面にもラッチを撤去した痕跡が見られますね。
近くの壁にはツーマン運転時代の名残、集札箱(きっぷ受箱)が付いています。
根室本線滝川~釧路間の快速・普通列車がワンマン化されたのは1993年3月ですが、この集札箱は27年を経てもなお撤去されずに残っているのです。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口 駅名板 駅名看板 駅名標
茂尻駅a20

改札口の左手には「もしり」と平仮名で大きく書いた看板があります。
ただし冒頭で述べたとおり、住所上の正式な読みは濁音の「もり」です。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口 ラッチ
茂尻駅a19-1

改札口の真正面には柵が立ちはだかり、真っ直ぐ外に出る事が出来ません。


木造駅舎 茂尻駅 木造モルタル造り 改札口 ラッチ
茂尻駅a05
1968年7月15日の「茂尻駅開設50周年記念式典」で横断幕を掲げた改札口
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.585より引用

直営駅時代は柵など無く、改札口の正面は広く開放されていました。
どうして柵を設置したのやら、全く以って謎です。


プラットホーム 島式ホーム 木造駅舎 跨線橋 茂尻駅構内
茂尻駅a21

駅舎とプラットホームを繋ぐ跨線橋。
改札口の手前をよく見ると、アスファルト舗装の路面が残っていますね。
どうやら改札口の正面には構内踏切があったようです。


プラットホーム 島式ホーム 木造駅舎 茂尻駅構内
茂尻駅a23
プラットホーム 島式ホーム 木造駅舎 茂尻駅構内
茂尻駅a24

1面2線の島式ホーム。
ホーム全長は20m車6両分ほどで、跨線橋の手前は綺麗に舗装されています。
方面別に乗り場を分けており、駅舎側が1番線で下り列車(芦別・富良野・東鹿越方面)が発着。
外側が2番線で上り列車(赤平・滝川方面)が発着します。
2番線の更に外側には茂尻炭礦専用線に繋がった貨物側線の跡があり、2番線から大きく離れた電柱の配置からもその気配を感じる事が出来ます。


プラットホーム 島式ホーム 木造駅舎 茂尻駅構内
茂尻駅a22
プラットホーム 島式ホーム 木造駅舎 茂尻駅構内
茂尻駅a25

島式ホームは部分的に崩されています。


キハ40系700番台 キハ40形700番台 茂尻駅
茂尻駅a26

2番線に停車した旭川運転所のキハ40-730。



茂尻駅a27

ホーム上の駅名標。


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※写真は特記を除き2018年11月10日撮影
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最終更新日 : 2020-09-25

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