空知管内は赤平市平岸仲町1丁目にある、JR北海道の平岸(ひらぎし)駅。
同名の駅は札幌市営地下鉄南北線にも存在しますが、平岸という地名の由来はアイヌ語の「ピラ・ケシ」(和訳:崖の端)だと言われています。
北海道立アイヌ民族文化研究センターによると「崖の端」が具体的に何処を指すのかは不明だといいますが、札幌の平岸は精進川の沿岸に長い崖がありますし、赤平の平岸も空知川に沿って崖が続いているという地形的な共通点が見られます。
札幌の平岸はラーメン激戦区として知られる街で、「山嵐本店」や「MEN-EIJI HIRAGISHI BASE」、「麺処蓮海平岸店」、「らーめん つけ麺 NOFUJI」などの人気店が集まっています。
一方、赤平の平岸は市内東端に位置し、芦別市との境界に接する鄙びた集落で、山と川に挟まれて東西に細長く民家が集まっています。
しばしば鉄道ファンの間では「2つの平岸駅」が話のネタにされる訳ですが、驚くなかれ空知川の対岸には「芦別市福住町」もあります!
平岸と福住・・・面白い事に赤平・芦別の境界には、札幌市内に実在する2つの地名が存在するんですね。
赤平市平岸は1895年、三重県人の団体が入植した事から和人の定住に至りました。
1909年には三重県桑名市から移住した宮大工・武藤伊兵衛氏が武藤組を創業し、現在は武藤工業㈱と名を変えて木造住宅の建設や家具のオーダーメイド等を展開しています。
また、今や面影がほとんど見られず、他の炭鉱町と比べて地味な存在ではあるのですが、平岸にも空知炭田の一部である平岸炭鉱がありました。
平岸炭鉱の始まりは三菱平岸炭礦だといい、平岸駅の南側山地に存在した5鉱区の試掘権を1913年3月、三菱合資会社が取得。
そして4年後の1917年8月、斤先掘(きんさきぼり)の梅野留氏と契約を結んで開坑し、近隣住民の間では梅野氏の姓を取って「梅野炭礦」と呼ばれました。
この梅野炭礦は1921年に早くも閉坑となりましたが(理由は不明)、戦後の1952年1月に北菱平岸炭礦として復活を遂げ、以降の採掘は札幌に本社を置く北菱産業㈱が引き継ぎました。
当初は三菱鉱業㈱の租鉱炭鉱だった北菱平岸炭礦ですが、1956年4月からは採掘鉱区の譲渡により、北菱産業㈱が炭鉱経営に当たっています。
しかしエネルギー革命により石油が台頭するや経済的な出炭が困難となり、1963年3月を以って閉山を迎えました。
なお、平岸周辺では他にも複数の鉱業会社が開坑しています。
開坑が相次いだのは昭和20~40年代で、三井芦別鉱業所福住坑、北振大谷沢炭鉱、平岸大谷沢炭鉱、平岸栄炭鉱などが操業しましたが、その多くは短命に終わっています。
比較的長命だったのは平岸炭鉱㈱が経営した「平岸炭鉱」で、これは1898年に開坑したパンケポロナイ炭山(現:芦別市福住町73番地)を前身としています。
同炭山は1918年7月に豊田教嘉氏(東京)の名義になり、炭鉱名を「豊田炭礦」に改めました。
更に1938年8月、芦別鉱業㈱が継承すると共に「平岸炭礦」に改称しましたが、戦時下の企業整備令によって1943年5月、強制的に閉坑されてしまいました。
そして戦後、1947年6月に「平岸炭鉱」として復活し、1964年6月までの17年間に渡り操業しています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 石炭列車 石炭輸送 木造駅舎 梅野炭鉱
平岸駅構内に開設された豊田炭礦(後の平岸炭礦)の着炭場
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.251より引用
平岸駅は1913年11月、国鉄釧路本線滝川~下富良野(現:富良野)間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
同年には三菱合資会社が駅南にあった5鉱区の試掘権を取得し、1917年8月から三菱平岸炭礦(梅野炭礦)が操業を開始しています。
しかし梅野炭礦は平岸駅構内に選炭場を設けなかったらしく、開坑から僅か4年後の1921年には閉坑しています。
同年8月には釧路本線が現在の根室本線に改称されました。
一方、駅北の福住町にある豊田炭礦は1922年12月、同炭礦から空知川を跨ぎ平岸駅まで石炭輸送用の索道(ロープウェイ)を敷設。
平岸駅構内には着炭場も開設し、索道で運んだ石炭を貨物列車に載せ替えて発送する体制を築きました。
豊田炭礦は先述のとおり、1938年8月に芦別鉱業㈱が継承し「平岸炭礦」に改称されています。
やがて太平洋戦争が勃発すると政府は1942年5月、企業整備令を公布。
これを受けて平岸炭礦も1943年5月に閉坑となり、平岸駅構内の着炭場も閉鎖されてしまいました。
なお、着炭場の積込線は同年10月、海軍軍需工場として発足した日本油化工業㈱の専用線に転用されています。
日本油化工業は石炭の液化に関する研究をしていたそうで、同社が駅前に開設した平岸診療所は社会医療法人博友会平岸病院に引き継がれています。
1945年8月、終戦を迎えると共に日本油化工業は解散。
同社平岸工場は翌1946年7月に日本精密木工㈱として再出発しますが、程なくして資金難と労働争議に喘ぐ事となり、創立11ヶ月目の1947年5月に倒産しています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 石炭列車 石炭輸送 木造駅舎 平岸炭鉱
戦後、平岸駅構内に開設された平岸炭鉱(旧:豊田炭礦)の選炭場
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.252より引用
1947年6月、平岸炭鉱㈱が平岸炭礦(旧:豊田炭礦)を継承し、「平岸炭鉱」として復活させました。
これに伴い平岸駅構内には、戦前の豊田炭礦着炭場を遥かに上回る規模の選炭場を開設しています。
JR北海道 国鉄 JR貨物 石炭列車 石炭輸送 木造駅舎 平岸炭鉱
平岸駅構内に開設された北菱平岸炭礦選炭場(1962年撮影)
赤平市史編纂委員会(2001)『赤平市史 下巻』(赤平市)p.136より引用
1952年1月、梅野炭礦が「北菱平岸炭礦」として復活を遂げました。
すると同炭礦も平岸炭鉱と同様、平岸駅構内に選炭場を開設。
書籍『赤平市史 下巻』の写真を見ると、駅本屋および2番線ホームの真向かいに選炭場があった事が分かります。
JR北海道 簡易駅舎 JR貨物 国鉄 根室本線 下富良野線
1950年代からエネルギー革命が勃発すると、空知炭田でも衰退が始まる事となりました。
1963年3月には北菱平岸炭礦が閉山し、続けて1964年6月には平岸炭鉱も閉山。
平岸駅構内の選炭場も閉鎖、取り壊しとなりました。
平岸周辺では他にも炭鉱の閉山が相次ぎ、1976年2月には平岸駅の貨物フロントが廃止されています。
JR北海道 簡易駅舎 JR貨物 国鉄 根室本線 下富良野線
1982年5月、荷物フロント及び旅客フロント(出改札・旅客案内)が廃止され、同時に無人化されました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。
現駅舎は1982年5月の無人化に伴い建設された、緩やかな「への字」を描いた招き屋根を持つ平屋です。
同じ根室本線の上芦別駅とは左右非対称で、外壁と破風板の色も上芦別駅の寒色系に対し、平岸駅は暖色系です。
駅前には古い木マクラギを組んだ柵があり、その端っこには赤平市指定のゴミステーションがあります。
改札口 簡易駅舎 平岸駅
国鉄末期の無人化に伴い設計された駅舎なので改札口は無く、駅前と駅構内を直接行き来できる通路を設けています。
通路左手にトイレ、右手に待合室の玄関があります。
待合室の玄関には・・・
集札箱 切符受け箱 きっぷ受け箱 平岸駅
・・・ツーマン運転時代の名残、集札箱(きっぷ受箱)があります。
根室本線滝川~釧路間の快速・普通列車がワンマン化されたのは1993年3月ですが、この集札箱は27年を経てもなお撤去されずに残っているのです。
簡易駅舎 平岸駅 完全無人駅 待合室 JR北海道 国鉄
簡易駅舎 平岸駅 完全無人駅 待合室 JR北海道 国鉄
待合室の様子。
無人化に伴う建て替えとはいえ駅事務室を広くとっているため、その分だけ待合室は狭く作られています。
駅事務室は保線作業時の休憩所として活用されていますね。
簡易駅舎 平岸駅 完全無人駅 待合室 JR北海道 国鉄 出札窓口
室内には上芦別駅と同様に出札窓口が設けられていますが、平岸駅で簡易委託による乗車券類の販売は実施された事が無いのだとか。
国鉄末期は万が一、簡易委託契約に名乗りを上げる人が現れた場合を想定し、出札窓口を設けたんでしょうかね?
赤平市立平岸中学校 平岸駅 待合室
待合室の壁には2007年3月に閉校された平岸中学校の写真が何枚も飾られています。
閉校直前の2006年にはカヌー体験をしていたんですね。
こちらは1955年4月に開校して間もない頃に撮影された写真のようです。
当時の平岸中学校は平岸小学校と一体化しており、「平岸小中学校」という名称でした。
言わば小中一貫校の先駆け的存在だったんですね。
これは最後の体育祭における出し物を記録した写真です。
「7~8年前から体育祭はやっていません」と解説を添えていますね。
カヌー行事の写真からして、おそらくこれらの写真は閉校直前に貼られたものと思われます。
すると体育祭は1997年か1998年を最後に開催しなくなった・・・という事でしょうか?
こちらは2006年10月当時の平岸中学校校舎。
オーソドックスなコンクリート建築です。
この校舎は2020年現在も平岸新光町7丁目に残っています。
相変らず連絡先としてフリーダイヤル(0120-653-444)を明記しています。
実際に電話を試みた人っているんでしょうか?
プラットホーム 平岸駅 改札口 案内板 看板
駅舎から線路側に出ると真正面に「←滝川.札幌方面」、「芦別.富良野方面→」との案内板が設置されています。
この看板も国鉄末期に作られた物でしょうね。
「芦別.富良野方面→」の看板は、駅舎脇の通路を直進した先にあるプラットホームを示しています。
「←滝川.札幌方面」の看板は、跨線橋を渡って反対側のプラットホームを示しています。
簡易駅舎 駅事務室 平岸駅 根室本線 JR北海道

連絡通路側から駅舎を眺めた様子。
左側には駅事務室の玄関が設けられており、保線作業員が出入りに利用します。
単式ホーム 平岸駅1番線 プラットホーム 下り線
単式ホーム 平岸駅1番線 プラットホーム 下り線
単式ホーム1面1線を2つ並べた、2面2線の構内配線。
ホーム全長は20m車5、6両分ほどでしょうか。
方面別にホームを分けて使用しており、1番線は下り列車(芦別・富良野・東鹿越方面)が発着します。
1番線の列車停止位置から跨線橋を眺めた様子。
上りホームから跨線橋は40mほど離れています。
跨線橋を渡って2番線に移動してみましょう。
単式ホーム 平岸駅2番線 プラットホーム 上り線
単式ホーム 平岸駅2番線 プラットホーム 上り線
2番線は上り列車(赤平・滝川方面)のみ発着します。
プラットホームは1番線と2番線に挟まれており、島式ホームのように見えますが1番線側を崩しているため単式ホームだと言えます。
2番線ホームの東端に立ち、駅構内の富良野方を眺めた様子。
1番線から1本の側線が分岐して駅舎方面に向かっています。
貨物側線 貨物ホーム 貨物積卸線 貨物積卸ホーム プラットホーム 保線車両
この側線は駅舎の手前に車止めを置いています。
現在はマルタイや軌道モーターカーといった保守用車の留置に使われていますが・・・
貨物側線 貨物ホーム 貨物積卸線 貨物積卸ホーム プラットホーム
・・・よく見ると線路に沿って貨物ホームが残っています。
元は貨物積卸線として使用されていた証左ですね。
それにしても結構長いな・・・。
ホーム上にある駅名標。
※写真は特記を除き2020年7月24日撮影
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最終更新日 : 2020-09-19