タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-08-15 (Sat) 17:44

増産助役、農園部・・・戦中戦後の食糧難に抗う国鉄の食糧自給策

上志文駅fv01
国鉄万字線の廃線跡に残る上志文駅の駅舎(2019年11月24日撮影)
同駅の近くには札幌車掌区の増産助役が監督する農地があった

テレビ東京の番組『カンブリア宮殿』は2018年3月1日放送回にて、JR九州の唐池恒二代表取締役会長に密着していました。
番組内ではJR九州が2014年に参入した農場経営を取り上げており、何と元車掌が乗務を降りて農作業に従事する姿も見られました。
農業は他のJRグループでも例を見ない事業であり、村上龍さんにもその事を問われたのですが、それに対して唐池会長が「国鉄職員も畑仕事をしていた。半鉄半農だったんです」と返しているのが印象的でしたね。
国鉄の現業職員は薄給に甘んじていたため、家庭を持つと家族の名義で畑を構え、農作業に勤しむ人も少なくなかったという話は聞いた事があります。
北海道で言うと新得保線区では、新得町内在住の職員の多くが自宅に畑を持っており、余暇・休日に畑仕事をしたのだとか。
大阪車掌区で車掌長をされていた坂本衛さんも、自著『車掌マル真乗務手帳』にて「半農半鉄」に触れています。

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 国鉄の就業規則には“兼職禁止”の条項があった。内容は「職員は他から収入を得てはならない」というものだけで、手っとり早くいえばアルバイト禁止令である。これには例外があって、市町村会議員だけは認められていたが、のちにはこれも削除された。でも国鉄の給与水準は他にくらべてきわめて低く、規則違反を承知で“他から収入”を得なければ生活できなかったのが実情である。
 合法的に他から収入を得る方法は夫婦共稼ぎだが、これとてそれぞれの家庭事情があって、奥さんが勤めに出られない場合もある。農業を副業にしている人も多かった。もちろん名義は両親か奥さん。こういう人のことを半農半鉄と呼んでいた。なかには奥さんの反対を押しきって、嫁姑問題が生じることを覚悟のうえで両親を引き取り、年金をあてにしていた人もいた。

《出典》
坂本衛(2000)『車掌マル真乗務手帳』(山海堂)p.178
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JR北海道 JR東日本 JR東海 JR西日本 JR四国 JR九州 JR貨物 国鉄
十弗駅ax01
十勝平野の東部にある根室本線十弗駅(2017年8月15日撮影)
同駅の近くには池田機関区の増産畑があり、日曜の駅構内は畑仕事を手伝う国鉄職員の家族で賑わった

しかし国鉄職員の畑仕事は家庭の事情に限った話ではなく、実際に国鉄の職場でも農地を構えて食糧を生産したケースが各地にあります。
これは1940年代の太平洋戦争中、日本全国で起きた深刻な食糧不足に対処するための施策でした。
当時は戦場へと優先的に食糧が送られる一方、多くの国民が配給不足に喘ぎ、農家でさえも供出制度によって十分な食糧を得られなかった時代。
食糧危機は1945年8月に終戦を迎えた後も続き、戦災復旧に臨む人々を大いに苦しめました。
交通インフラを支える国鉄職員もまた食糧難に苦しんでおり、職員の食糧を自給して配給不足を補うべく、各地に国鉄の農地が作られたという訳です。
特に終戦後は食糧増産を鉄道の業務に必要なものと位置づけ、国鉄当局は1945年12月に「食糧増産部」を開設しています。

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 復員する人々を迎え工場作業が本格化するためにも、戦中から続く食糧不足には、せっかくの職員の意気もくじけがちとなる。国鉄としてはこの難局を打開するため、昭和20年12月1日従来の増産機構を鉄道本来の業務運営に必要な一機関として、国有鉄道食糧増産部を設置した。

《出典》
長野工場百年史編集委員会(1990)『長野工場百年の軌跡』(東日本旅客鉄道株式会社長野支社長野工場)p.171
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十勝管内の池田町役場が編纂した書籍『池田町史 下巻』でも、1946年春に開設された池田機関区の増産農場に関する記述が見られますので引用しましょう。

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三 増産農場に汗水流して
 杉山区長の後を継いだ横山区長は敗戦後の最も苦労多い時代の3年間を区長として在住した人であった。国鉄職員も安い俸給生活者として、戦後の悪性インフレーションの中で苦労をした。長年たくわえた預金も消え去り、買い出しに出かけた農家では金よりも衣類等の物々交換が望まれたため、タンスの中の着物は豆や麦や芋に化けてしまった。まさにひと皮づつむいて行くタケノコ生活である。
 そして売る物もなくなった時、当然自らの手で食糧を生産する以外に道はなかった。
 それが池田機関区増産係の誕生となったのである。
 今村増産助役をキャップに機関士1名、合図方1名、それに農家から5名を増産係に採用し、十弗に22町歩、昭栄に5町歩の増産畑を耕作し、主として麦、豆、馬鈴薯を作付けたものであった。
 日曜日になると増産畑の作業に出かける国鉄職員の家族で十弗駅は人で埋まってしまうというありさまであった。収穫物は当時100名以上も収容していた寮生の生活にあてたほか、大豆は加工業者にも売り、その見返りとしてみそ、しょうゆを受けてそれを各家庭に配給するという方式をとった。
 こうして増産係は国鉄の機関区の仕事とは全くかけ離れた世界でそれぞれ大活躍したのであった。

《出典》
池田町役場(1989)『池田町史 下巻』p.102
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引用文によると、池田機関区は根室本線十弗駅、昭栄信号場の近くに畑を耕作し、それらの農作業を管理する担当助役として「増産助役」を配置しました。
そして増産助役の配下には「増産係」という職員を置き、これに機関士1名、合図方1名を配転すると共に、5名の農家を雇用して8名体制で食糧増産に当たっています。
この「増産係」という職名は国鉄の職制上において規定の無い肩書きで、あくまでも臨時的な職種として設定したようです。

なお、同じ十勝管内の帯広駅が発行した記念誌『開業80年のあゆみ』(帯広駅開業80年記念編集委員/1985年)によると、帯広駅でも1945(昭和20)年11月17日に増産助役を発令しています。
同記念誌には「職員の食糧確保のため、「増産」制度が生まれ、増産助役1名配置される(23.3.31廃止)」(p.33より引用)とあり、池田町史と違って「係」を「掛」と記しています。
当時の国鉄では出札掛や操車掛、技術掛のように、助役より下の非管理職の職名に「掛」の字を付しており(掛職という)、「係」は非現業部門の部署単位でしか使われていませんでした。
具体的には厚生課共済係、会計課出納係といったように、部課の末端部門にのみ付した訳ですね。
したがって増産担当の現場係員についても、帯広駅の記念誌にあるとおり「増産掛」が正しいものと思われます。


宮村農場 札幌車掌区 札幌車掌所 国鉄万字線
上志文駅fv02
上志文駅の近くにある宮村農場(2019年11月24日撮影)
札幌車掌区は宮村農場から農地を借りて野菜を作っていた

道内では池田機関区や帯広駅の他にも、札幌車掌区が増産助役を配置していた事を確認できます。
これについては札幌車掌区の記念誌『年表と写真でつづる65年』が詳しいですね。

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食うために
山崎忠三

 戦後の食糧事情は、悪化を辿る一方で、区あげてこのために対策を講じた。その様子を、当時の「北州会会則」から拾った。
 昭和21年6月26日、北州会会則改正提案
 ※評議員――女子職員1名
 ※常任幹事――増産助役――婦人部長
 ※事業の中に消費組合を置く――第21条、消費組合は組合員の生活必需物資を購入して
  組合員の経済事情を合理的にすることを目的とする。
 ※会費は会員より毎月2円を醵出する。
 この中に、増産助役とあるのは、故林忠蔵氏のことで、昭和21年1月、助役発令と同時に、食糧増産事務担当者に任ぜられ、それからは、上志文(万字線)の宮村農場から2町歩の農地を借り、馬鈴薯、豆、カボチャ、などを、増産助役の督励の下で作って区員に配った。その他、張碓海岸に大きな釜を据え、枕木を焚いて塩作りをしたり、穀物類の買い出し計画なども立案したりするのが、その任務であった。
 現在のひばりが丘団地附近に管理部の健民農場が有ったのだが、あとで市に売却、大変な財産であった。

《出典》
札幌車掌区65年史編集委員会(1978)『年表と写真でつづる65年』(札幌車掌区北州会)p.108
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国鉄末期に車掌長を務めておられた山崎忠三さんの寄稿文です。
これによると増産助役を拝命したのは助役に昇進したばかりの方で、2020年現在も上志文で営農している宮村農場から土地を借り、ジャガイモ、豆、カボチャなどを生産していたとの事。
しかも張碓駅の眼前に広がる張碓海岸には塩釜を置き、食塩までも自給していたというのです。



上志文駅fv03
岩見沢市役所が建立した上志文駅の石碑(2019年11月24日撮影)
駅の解説文を刻んでいるが、増産農場に関する記述は見られない

また、本書の巻末に掲載されている座談会「戦中を語る」の議事録でも、食糧の配給や増産助役について言及されています。
証言者は何れも札幌車掌区のOBで、操縦車掌(後の運用教導掛)などを務めた水野義一さん、復員後に庶務掛を務めた広川達雄さん、女子車掌として勤務した田中キエさん、川原タミさんの4名です。

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司会 広川さんは、19年6月海軍に召集されて21年の2月帰ってこられたんで、女車掌さんとの交流は、割と薄いようですが、何か・・・。
広川 帰ってきてから33年まで庶務に居たんで、その面での接触は結構あったんです。
司会 内勤のことといえば、庶務掛さんが米屋になったり酒屋になったりって話・・・・・・。(笑い)
区長 何んですか、それは?
広川 いや、業務米とか労務米とかって、重要産業部門に働く人たちに特別の配給米があったんです。まるで玄米みたいな米で、配給量もほんの僅かでしたけど助かったんです。酒もそんな具合にすこしずつ配給されましたね。たしか小山内君が、その配給係りで、女の人に計らせるんですけど――計り込むな、計り込むな――って厳しく言ってたのを思い出しますね。
川原 根が優しい女のことですから、あまり真剣に計る手元をみつめられると、つい、計り込んだりして・・・・・・。(笑い)
水野 これは戦後になっちゃうけど、亡くなった林助役さんが、増産助役で、万字線の上志文に車掌区だけの農場を2町歩ほど借りてカボチャや薯作り専門にやってたね。
田中 私も草とりに行ったことあるわ。
広川 林さんらは、向こうに泊まり込んでいたんですよね。それで収穫されたものを区員に配るのがその任務、いま思えば一番重い責任の助役さんでしたね。
司会 塩もどこかで?
広川 塩は張碓海岸に、管理部で釜を設置して、きょうはどこ、きょうは車掌区って格好で塩作り、それを又配給です。今思えば食糧獲得のための闘い、し烈ってとこですね。だから、食い放題なんての、もったいないと思いますね。

《出典》
札幌車掌区65年史編集委員会(1978)『年表と写真でつづる65年』(札幌車掌区北州会)p.113
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なお、張碓の塩釜について広川さんは管理部(鉄道管理局の前身)の設置と仰られていますが、車掌区の増産助役が塩釜も設置したとする山崎さんの見解と食い違ってしまいます。
ただし山崎さんは車掌区内の資料『北州会会則』を読んだ上で寄稿文を執筆されているため、広川さんの記憶違いである可能性が濃厚かも知れません。



札幌増産場as01
札幌市厚別区にある市営住宅ひばりが丘団地(2019年11月9日撮影)
この団地はかつて、国鉄の札幌管理部増産場だった

さて、札幌車掌区の『年表と写真でつづる65年』には、国鉄札幌管理部(後の札幌鉄道管理局)が札幌郡白石村厚別(現:札幌市厚別区)に開設した健民農場に関する記述も見られました。
この健民農場は正式名称を「札幌管理部増産場」と言い、戦時中に国鉄が開設した錬成農場を前身としています。
更にルーツを掘り下げると、元々は馬場和一郎さんが種畜(子を産ませるために飼育する雄の家畜)の生産と乳製品の加工を目的に、1927年に創業した約60haの畜産農場でありました。
それが1942年5月、政府が戦時統制を強めるべく企業整備令を公布すると、馬場農場も内務省に強制接収されてしまったのです。
そして程なくして国鉄に移管され、国鉄職員に配給する食糧を生産するようになりました。
しかし食糧不足は月日を追うごとに深刻さを増し、終戦に至ると錬成農場の生産力だけでは賄えなくなってしまい、現業機関単位でも増産農場や塩釜等を構えるようになったという訳ですね。


国鉄 札幌管理部増産場 札幌市営住宅ひばりが丘団地 旧馬場農場のサイロ
札幌市営地下鉄東西線 ひばりが丘駅 札幌市交通局
札幌増産場as02
(2019年11月9日撮影)

ひばりが丘団地の中には、往事の面影を残すサイロが1棟。



札幌増産場as03

このサイロは札幌市創建120年記念として1988年、「さっぽろ・ふるさと文化百選」の一つに選ばれています。
傍には「旧馬場農場のサイロ」に関する解説板があり、馬場農場が国鉄の所有となった後、1958年に札幌市が買収してひばりが丘団地の造成に至った旨を記しています。
当時の札幌市は炭鉱の閉山などによって道内各地から移住者が相次ぎ、急激に人口が増加していました。
すると36000戸の住宅不足という一大問題を抱える事になってしまったため、国鉄から不要となった増産場の土地を買収して団地を造ったのです。
札幌市役所が増産場用地を買収した当時、敷地内はすっかり荒廃し切っていたといいます。
では具体的に廃止されたのはいつ頃?


岩見沢駅 歴代輸送総括助役 輸送総括助役 輸送助役 運転取扱業務
札幌増産場as04
岩見沢駅の歴代輸送総括助役一覧
このうち1948(昭和23)年3月に着任した鈴木昇氏の前任は札幌管理部増産場の場長だと確認できる
岩見沢駅90年史編さん委員会(1972)『岩見沢駅90年史』(岩見沢駅長 竹田小太郎)p.30より引用

その手がかりを求めて資料を漁ってみると、函館本線岩見沢駅の開業90周年を祝って編纂された記念誌『岩見沢駅90年史』に辿り着きました
このp.30には岩見沢駅における運転取扱業務の責任者、輸送総括助役の歴代就任者をまとめた一覧が載っています。
これに目を通すと終戦後、1948(昭和23)年3月31日に就任した鈴木昇さんの前任が「札管増産場長」とあるのです!
道内外を問わず戦後に国鉄が運営した増産農場を調べてみると概ね3年前後で廃止に至っており、国鉄における管理者(駅長・区長・場長など)の在任期間も大抵は2、3年程度です。
これらの事から察するに、おそらくは鈴木昇さんが戦後の札幌管理部における最初で最後の「増産場長」だったものと思われます。
つまり札幌管理部増産場は1948年3月30日を以って廃止されたのでしょう。


JR東海 浜松工場 鍛冶職場 国鉄 東海道本線
国鉄浜松工場の鍛冶職場戦災
戦災を被った浜松工場の鍛冶職場
七十年史編さん委員会(1982)『七十年史』(日本国有鉄道浜松工場)p.16より引用

せっかくなので道外の事例も見ていきましょう。
現在は東海道新幹線の車両工場として機能する浜松工場は元々、在来線の車両を検査・修繕する工場であり、その歴史は深いです。
ここもやはり戦後の食糧危機に抗うべく食糧増産に取り組んでおり、しかも1945年時点で2,898名だった工場従事員が復員・引き揚げ者の受け入れにより、1947年までの間に4,338名にまで膨張したのですから大変な苦労があっただろうと思います。

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 終戦となると、軍隊からの復員や疎開先からの帰郷、あるいは海外からの引き揚げ輸送(660万人)が緊急の課題となった。また、人々は食糧の買い出しなどのため鉄道に殺到した。
 しかし、国鉄は戦争のために疲弊しきり、車両は破壊され、あるいは補修・整備をともなわないまま酷使され、数少ない機関車が満身創痍の状態で走っていた。戦時中の後遺症と一変した輸送要請に、浜松工場では復旧作業と併行して機関車修繕作業がすすめられた。軍関係からの復員も相次ぎ、外地鉄道引き揚げ者の受け入れや経験工の採用などにより職員数も急速に増加した。
 またこの年は、米作が42年来の不作を記録し、食糧問題は極めて深刻で、2号1勺(約315グラム)の配給も、甘藷・馬鈴薯・トウモロコシ・高粱・大豆糟などが含まれ、その配給すらも遅配・欠配するありさまであった。昭和21年1月16日浜松工機部従事員労働組合が結成され活発に活動を開始したが、組合の要求が食べることから始まったのも、当時の切実な状況を物語っている。
 浜松工場でも深刻極まる食糧危機を突破する方策として、工場周辺の水田および戦時中に確保した農場を利用して食糧増産をはかり、新居町に製塩所を設けて塩不足に悩む職員の家庭に配給するなど、ひたすら「工場再建」への涙ぐましい陰の努力も重ねられたのである。

《出典》
七十年史編さん委員会(1982)『七十年史』(日本国有鉄道浜松工場)p.17
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JR東日本 長野総合車両センター 谷浜駅 信越本線 えちごトキめき鉄道
国鉄長野工場谷浜塩田
北陸本線谷浜駅の近く、谷浜海岸に築かれた長野工場の塩田
長野工場百年史編集委員会(1990)『長野工場百年の軌跡』(東日本旅客鉄道株式会社長野支社長野工場)p.170
より引用

製塩に取り組んだのは、海に近い業務機関だけではありません。
思いっきり内陸に位置する長野工機部(後の長野工場)は何と、新潟県直江津市(現:上越市)の谷浜海岸に塩田を築いて天日製塩に取り組むほか、同海岸から海水を工場まで直送し電気釜で製塩する手法も採っていました。
他にも長野県内の黒姫(後にC.W.ニコルさんが「アファンの森」を造った事でも有名)に「黒姫増産所」を開設し、ジャガイモ、大根などを栽培しました。
薪の伐採までも自前です。

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 長野工機部の場合、同年12月11日付の通報により食糧増産支部事務局が発足した。支部の要員は昭和22年度には職員46名の規模を有した。
 食糧増産は戦前からの継続もあったが、支部の設置に伴い本格化した。業務としては、おおよそ次のようであった。
(1)製塩関係
 戦前からの新潟県谷浜海岸の天日製塩と、工場内に設けられた製塩所が並行した。谷浜の場合長野刑務所の受刑者の就労もあったが、揚水ポンプの設置や電気ボイラーの考案等もあって夜間も稼働が可能になり、生産量は飛躍的に増えたが、昭和25年増産支部の廃止時には閉鎖された。
 工場内の製塩所は電熱器による連続運転により効果を上げた。塩水は谷浜からタンク車によって直送された。当時、各職場の冬季間のストーブによる製塩も行われた。
(2)黒姫増産所
 昭和21年春、約3,000平方メートル近い山麓が借用され開墾された。日々各職場から作業者が派遣され、ジャガイモ・大豆・大根等各種野菜・穀物が収穫された。
(3)飯綱山麓および斑尾山の薪伐採
 鉱泉近くの山林で、7,000束の薪を伐採、昭和21年の業務用に供した。
 また斑尾山においても昭和22年4月3日、斧入式を行い、同山林からも薪を伐採した。
(4)吉田分所の空地利用の菜園
(5)土屋坊等の借用農地
 以上の収穫は職員の昼食、残業時の夜食に供せられ、厳しい食糧事情に対処した。すべては増産支部の廃止により、この制度は消滅するが、当時を回想する人々には苦しさよりも、一つの風物詩がよみがえる。
(当時増産支部の業務に関与した宮下晴吾・牧野茂・轟弘幸・井沢久・臼井重富の証言)

《出典》
長野工場百年史編集委員会(1990)『長野工場百年の軌跡』(東日本旅客鉄道株式会社長野支社長野工場)p.p.171,172
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JR西日本 鷹取工場 組織図 網干総合車両センター 山陽本線
国鉄鷹取工場組織図(昭和20年度)
1945年当時の鷹取工機部(後の鷹取工場)の組織図
鷹取工場百年史編集委員会(2000)『鷹取工場回想(創業100年の記録)』
(西日本旅客鉄道株式会社神戸支社鷹取工場)p.262より引用

関西では鷹取工機部(後の鷹取工場)も食糧自給に取り組みました。
上に引用したのは1945年当時の鷹取工機部組織図。
総務課の指揮下に庶務係・要員係・厚生係・経理係が設けられており、このうち庶務係に「農園部」が置かれていました。
「課」の末端部門が「部」というのも奇妙な話ですね。
鷹取工機部総務課農園部は戦時体制での設置で、戦後の1947年8月からは新たに開設された食糧増産支部が野菜の生産や種苗の購入に当たりました。

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 戦争末期から食糧不足に備え場内の空き地を農園化した。なかでも北門付近から東の空き地にあった職場単位の農園には、職場から毎日当番を決めて耕作にあたり作物は職場内で分配した。
 敗戦後食糧危機に陥り、自衛策として昭和21年(1946)4月に須磨(北門付近)と荒井(旧高砂工場)の両増産場を儲け、増産場長と食糧増産委員を任命し、受持ち農園の管理運用を行わせた。農場では主として、麦とさつまいも、野菜類の種苗等の増産を手がけ、場内のし尿は農地に自家処理するほか、当時は捨てるものは全くなく、すべてが食糧につながるものばかりであった。
 昭和22年8月21日、大鉄局の厚生課を母体とした食糧増産体制が組織され、鷹取工場に支部が設置された。ここでは主として増産指導を行い、野菜を育成しては職場単位に配給したほか、県農業課に斡旋を依頼し、遠く広島県とか、氷上郡の柏原付近まで足を運び、必要な種苗を購入してきては職場に実費配給を行い、食糧緩和に努めたが、昭和23年12月に増産部が廃止され、食糧難の対処に終止符がうたれた。
 一方食塩の自家充足が発案され、昭和20年6月副生品職場員4名と、動員の学徒約30名で若宮海岸に製塩場を設置した。
 製塩方法は全くの旧式で、海水を天日利用で濃度を2~3倍にした後、長さ15メートル、巾2メートル、高さ0.5メートルの鉄製缶で薪、石炭で昼夜兼行で炊き続けて製造した。一日の生産高は50kg程度で、すべて食堂で使用された。
 木炭の需給も思うにまかせず、昭和22年2月1日に、因美線智頭(鳥取県)に製炭事務所を設け、現場作業員6名を採用、木炭の自家生産を開始し、昭和24年7月まで続けた。

《出典》
鷹取工場百年史編集委員会(2000)『鷹取工場回想(創業100年の記録)』(西日本旅客鉄道株式会社神戸支社鷹取工場)p.35
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以上のように、戦中戦後は各地の鉄道職場で食糧、必要によっては薪などの自給自足をしていたのです。
そんな過酷な時代を一致団結して耐え抜いたからこそ、現代の鉄道の発展に繋がったのだと思います。
全国各市町村の郷土資料、国鉄現業機関の記念誌などを漁れば、国鉄の増産農場等に関する情報がもっと出てきそうですね。
しかし鉄道趣味書籍ではほとんど取り上げられないネタというのは何とも寂しい限り・・・。


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最終更新日 : 2020-08-30

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