タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-08-09 (Sun) 20:26

宗谷本線和寒駅 駅弁立売をルーツに持つ「つたや食堂」

和寒駅a01

上川管内は上川郡和寒町字北町にある、JR北海道の和寒(わっさむ)駅。
宗谷本線きっての難所である塩狩峠の北側に位置する、和寒町の中心街に駅があります。
和寒町は道内屈指の豪雪地帯・名寄盆地の南端で、1897年に秋田県人の菊池伊七氏が移住した事から和人の定住に繋がりました。
それから10年後の1907年には涌井藤七氏により和寒で初の稲作が試され、今や同町の主幹産業にまで発展しています。
ちなみに「涌井藤七」という名を調べると、田中正造と共に足尾鉱毒事件を戦った同姓同名の人物が確認できるのですが、和寒で稲作を始めたのと同一人物かは不明です。
宗谷本線の車窓からも見える米工房「天塩の大地」は和寒町役場が事業主体として建設したカントリーエレベーターで、施設運営をJA北ひびき和寒町基幹支所が担当し精米・集出荷を行っています。

また、米の他にも越冬キャベツの生産が盛んで、2010年2月には特許庁より「和寒越冬キャベツ」の商標登録を受けています。
カボチャの生産も見逃せず、その作付け面積は858haという日本一の規模です!
現在は「ストライプペポ」という新品種のカボチャを栽培しており、「種を食べるカボチャ」として注目を集めています。

和寒町の現町長を務める奥山盛さん(地元出身)は元国鉄職員で、高校卒業と共に就職されたのは宗谷本線等を管轄に置く旭川鉄道管理局…と思いきや、何と道央を管轄とする札幌鉄道管理局でした。
高校時代の奥山町長は卓球に熱中しており、札鉄局を就職先に選んだのも「強豪の実業団があったから」との事。
最初の4年間は保線区に勤務され、施設係として軌道変位(レールの歪み)の整正などを担当。
その後も鉄道施設関係でキャリアを積まれたそうですが、やがて国鉄解体の時が来ると北海道庁に転職されました。
そして2014年から2期連続で和寒町長を務めておられます。
JR北海道が2016年11月に「当社単独では維持することが困難な線区」を発表すると、奥山町長は国鉄・道庁の両方に身を置いた立場から「鉄道を活かす町づくりをしなかった自治体にも責任がある」との考えを示し、宗谷本線の存続に向けた利用促進・活性化対策に取り組まれています。


JR北海道 国鉄 和寒駅 木造駅舎 旧駅舎 天塩線 宗谷線 宗谷本線 JR貨物
和寒駅a02
和寒駅の旧駅舎は木造下見張りの平屋だった
北海道上川郡和寒町(1975)『和寒町史』p.409より引用

和寒駅は1899年11月、北海道官設鉄道天塩線(現:宗谷本線)蘭留~和寒間の延伸開業に伴い、一般駅として開設されました。
同時に旭川保線区和寒線路分区も開設され、同線路分区は和寒駅構内に保線作業を担当する和寒線路班を配置しました。
書籍『和寒町史』は開業当時の和寒駅の様子を伝えており、これを読むと駅前に鉄道官舎以外の生活の気配はほとんど無く、当直勤務も無いような小駅だった事が分かります。
また、後に延伸開業した剣淵と同じく、和寒でも鉄道用の木マクラギを製材していたそうです。

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 明治34年当時の和寒駅 当時、駅員は6、7人で、保線の方には10人ほど居た。今の官舎の所には3戸続きと2戸続きの官舎があって、1戸の合宿があった。列車は1日2往復だけで、乗り降りは多くで1日12人か13人、少ない日は1人か2人で、冬はほとんど居なかった。貨物が大部分で枕木などが多く、それに屯田の米、みそなどであった。駅員は列車が通ってしまうと用事がなく、夜は当直も勤務もなく、給水の仕事だけが一番多かった。手押しの揚水であるから係4人が2人ずつ交替で、時によっては寝ずにやった。駅の周りは大木が茂り、草は6~7尺も伸びて、数間先の人間は見えなかった。非常に蚊が多くて昼でも蚊帳を吊らねば食事ができぬほどで、手や足には黒くなるほどついたものである。当時は雪も非常に多く降って屋根まで届いた。線路の諸所には材料を組んで覆いをして吹き溜まりを防いだが、時間も遅れ立往生もずいぶんあった。塩狩付近は熊が出るので、2人以上でなければ歩けなかった。汽車の開通によって国境の道路は通る人もなく、すっかり荒れてしまい歩くことはできなかった。(明治33年来住、翌34年秋和寒駅に奉職した成田庫治談『和寒村沿革概誌』)

《出典》
北海道上川郡和寒町(1975)『和寒町史』p.p.405,406
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なお、同町史p.409によると和寒線路分区の他に「名寄機関庫和寒給炭水所」も設置されたとありますが、まだ名寄まで鉄道が敷かれていない時期だった事を鑑みるに、「旭川機関庫和寒給炭水所」の書き間違いではないかと思われます。
そして1903年9月に天塩線士別~名寄間が延伸開業すると、同時に新設された名寄機関庫(後の名寄機関区/現:名寄運転所)に給炭水所が移管されたのでしょう。

ちなみに和寒駅に初めて降り立った旅客は何と延伸開業4ヶ月前の1899年7月1日、特別な計らいにより試運転列車に便乗してきた屯田兵の家族だったといい、到着後は屯田兵の住む剣淵・士別まで移動したそうです。
この剣淵・士別の屯田兵は瀬戸内海沿岸や北陸地方等から集結した日本最後の屯田兵であり、彼らの入植を以って屯田兵の募集は打ち切られる事となりました。


和寒駅 駅名標 塩狩駅 東六線駅
和寒駅a03

翌1900年8月、北海道官設鉄道天塩線(現:宗谷本線)和寒~士別間が延伸開業しました。
この頃には駅周辺に小規模な市街地が形成されるようになり、更に1902年からは相馬・山形・南部・秋田といった東北各地をはじめ、越中、佐賀からも団体入植が相次いで急速に発展。
その多くは林業に従事し、和寒駅も木材の搬出が盛んになりました。

北海道官設鉄道は1905年4月、道庁から鉄道作業局(後の鉄道省)に移管されており、天塩線も例外に漏れず国鉄の管轄となりました。
1909年にペオッペ駅逓所が開設されると、まだ深名線の恩恵に与かれていなかった幌加内の住民も和寒駅を利用するようになりました。
大正時代に入ると1912年9月、国鉄天塩線が宗谷線に改称。
更に7年後の1919年10月には現路線名の宗谷本線に改称されています。

大正から戦後にかけての和寒駅の模様についても、『和寒町史』に記されています。
北隣の剣淵と同様、当時の和寒でも好景気による価格暴騰に乗っかって除虫菊(シロバナムシヨケギク)が栽培されており、貨物列車に積んで他地域へと発送されていました。
軍馬用の燕麦を生産し、貨物列車に積載したのも剣淵駅と同じです。
昭和初期にスキーブームが到来すると国鉄札幌鉄道局も1931年、和寒に職員保養施設として「スキーの家」を開設しています。

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 大正から戦前にかけては、農産物(米、除虫菊、亜麻、飼料、でん粉、その他)、枕木や薪材、石材が積み出され、砂利、石炭、米、肥料などが台車で送られてきた。この間、大正12年には塩狩駅が開設され、翌13年には急行列車が名寄まで開通した(和寒駅にも停車)。さらに昭和2年元旦から坂本孫一が和寒駅で構内立売りを開業、宗谷本線の名物になったし、スキー客も多くなったので昭和6年札幌鉄道局スキーの家も設置された。しかし、戦争が始まると駅は出征兵士や軍馬と家族にとって、最後の別れの場となり、あるいは戦死者の遺骨を迎える悲しみの玄関口となった。また、貨物もクローム、えん麦などが増え、終戦ころには女子駅員がモンペ姿で勤務する風景も見られた。
 敗戦後は復員軍人、海外引揚者、食糧買出し人と乗客の数は増えたが、石炭・車両・従業員ともに不足していたから、どの列車も満員でデッキはもちろん、機関車や貨車にまで乗客が鈴なりという混乱ぶりであった。窓ガラスは破れてベニヤ板がはってあり、窓から乗り降りする者もいた。座席の布ははぎ取られ、冬でもストーブ用の石炭は少ないので、みんな背をまるめ肩をすぼめて、2人用の座席に3人ずつ腰かけるという「交通地獄」の時代であった。

《出典》
北海道上川郡和寒町(1975)『和寒町史』p.408
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激動の時代を乗り越え、1949年には和寒駅で「開業50周年記念式典」を挙行。
この時、地元有志が集まって「和寒町旅行会」が結成され、国鉄線を利用しての団体旅行を企画するようになりました。

1953年1月、和寒駅は30年ぶりと言われるほどの猛烈な寒波に襲われ、駅構内の貯水槽が凍結。
消防署に消防自動車の手配を要請し、1月3日~5日の3日間をかけて蒸気機関車の給水に利用するという珍事となりました。

その後は和寒駅でも合理化とサービス向上を図る事になり、まず1967年に蒸気機関車の方向転換と給水業務を担ってきた名寄機関区和寒駐泊所が廃止。
これに伴い駅構内の転車台と給水塔が撤去されました。
続けて1968年3月、宗谷本線新旭川~音威子府間に連査閉塞が導入された事に伴い、従来のタブレット閉塞が廃止。
ホーム上でタブレット交換をしていた和寒駅の当務駅長(助役・運転掛を含む)も、新たに設置された連査閉塞装置の制御を担うようになっています。
4ヵ月後の1968年7月には、貨物輸送のコンテナ切替を促すべく補助コンテナ基地が開設されました。


保線区 本区 保線支区 検査班 作業班 指揮命令系統
国鉄の保線区・保線支区体制図p01

更に1968年12月には従来の旭川保線区和寒線路分区に代わる現業機関として、永山駅構内に旭川保線区永山保線支区が開設されました。
「保線支区」とは国鉄施設局が従来の線路分区・線路班による分散的な人力保線を改め、組織の集約化と機械の投入による集中的な保線体制の確立を目指し、全国各地に設置を進めていた現業機関です。

かつて国鉄の保線区は5~6kmおきに、概ね10名の線路工手から成る「線路班」を1班ずつ置き、その元締めとして「線路分区」を構えていました。
線路班が担ってきた人力保線は随時修繕方式と言い、ツルハシを持って担当する区間を巡回し、レールやマクラギ、道床を見たり触ったりして検査を行い、異常を発見したら直ちに修繕を施すものでした。
しかし高度経済成長期に鉄道の輸送量が増大すると、それに伴い列車本数も増便された事により、保線作業の出来る列車間合が減少。
おまけに列車の速度も向上したために線路破壊が早まり、それでも運転回数が多いせいで十分な修繕の出来る時間が少ない…というジレンマを抱えてしまった訳です。

そこで国鉄施設局は「軌道保守の近代化」を計画し、線路分区に代わる現業機関として1963年4月から「保線支区」の設置を進め、限られた時間の中で集中的に検査・補修を行う「定期修繕方式」に移行していきました。
従前は混同していた検査と作業も完全に分離。
10~15kmおきに設置した「検査班」が支区長に報告した検査結果を元に、計画担当(計画助役および技術掛)が作業計画を策定し、作業助役を通じて「作業班」に修繕をさせるという業務体制に移行しています。



国鉄の保線区・保線支区体制図p03

一方、本区の従事員は施工作業を担当せず、総務事務、資材管理、技術管理に特化しました。
管理助役らは在籍係員及び下請け業者に対する技術指導・安全教育や情報周知、各現業機関とのスケジュール調整などを担い、線路助役らは軌道設計・積算・契約立案などを担当。
土木部門は検査と工事に分かれ、検査助役らは土木構造物(トンネル・橋梁・プラットホーム・落石防護工など)の日常検査と構造物検査センターへの精密検査依頼を行ない、工事助役らは土木構造物の補修計画・発注・工事監督を担うといったように業務分担をしています。

1968年12月の永山保線支区開設に伴い、和寒線路分区と和寒線路班は共に廃止。
その代わり、和寒周辺の軌道検査を担当する和寒検査班が発足し、線路巡視(列車巡視を含む)を行うようになりました。

しかし各種合理化の成果も虚しく、国鉄の赤字額は年を追うごとに増加。
和寒駅もまた苦境に立たされており、1980年11月には第1種継電連動装置が導入され、駅構内にある全ての転轍機と信号機を1台の連動装置で制御するシステムが構築されています。
1982年11月に貨物フロント業務が廃止となり、補助コンテナ基地も14年間の短い役目を終えました。
更に1984年2月ダイヤ改正で全国のヤード系集結輸送が廃止されると、和寒駅の手小荷物フロント業務も廃止。
1984年11月には旅客フロント(出改札業務)も廃止となり、出札業務が簡易委託化されて待合室の売店で切符を売るようになりました。
ただし宗谷本線新旭川~音威子府間は連査閉塞のままだったので、閉塞装置を取り扱う当務駅長(助役・運転主任を含む)のみ引き続き配置されました。


和寒駅 簡易駅舎 宗谷本線 塩狩峠
和寒駅a04

1986年11月には宗谷本線永山~南稚内間に特殊自動閉塞(電子符号照査式)が導入され、車載器と閉塞装置の相互通信により信号設備を操作するようになりました。
これにより当務駅長が閉塞装置を扱う必要は無くなり、駅員無配置となりました。
旭川保線区永山保線支区和寒検査班も、この頃には廃止されたようです。
そして1987年4月の分割民営化に伴い、JR北海道が和寒駅を継承。
新会社の発足後も暫く続いた出札業務の簡易委託ですが、1992年4月に売店が廃業したため以降の出札は士別駅から駅員を派遣して対応するように。
その駅員派遣も1995年4月を以って打ち切る事となり、遂に完全無人化されました。
書籍『和寒町百年史』にも国鉄末期~分割民営化にかけての、和寒駅の状況が記されていますので引用しましょう。

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 明治32年11月15日、工事が進められていた鉄道も和寒まで開通した。翌年には和寒ー札幌間直通列車も運行されることとなった。駅を中心に小さいながらも市街地が形成され、長い歴史のなかで常に町勢の進展に寄与していた。
 しかし、道路網の整備やマイカーの普及、さらには過疎化による人口減での利用客の急激な減少など和寒駅のみならず、国鉄の経営は窮地に追い込まれ、50年代に入ると国鉄の合理化が常に話題になるようになった。昭和55年には転てつ機、信号機の継電連動化、昭和57年には貨物の取り扱いの駅の廃止などによって駅員配置が急激に縮小されていった。
 こうした合理化は一層進められ、考えもつかない無人駅となったのである。乗車券は一時期駅舎内での委託販売もあったが、今は車両内での販売に変わっている。

《出典》
北海道上川郡和寒町(2000)『和寒町百年史』p.p.506,507
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和寒駅 簡易駅舎 宗谷本線 塩狩峠
和寒駅a05

現在の駅舎は3代目で、1988年11月に竣工したコンクリート造りの平屋です。
薄緑色を基調とした外壁に、塩狩峠のアップダウンをイメージしてアーチを描いた大窓を有しています。
『和寒町百年史』にも現駅舎に関する記述がありますので、以下に引用しましょう。

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 昭和62年4月1日、国鉄からJRに移行したことでJRは地域ニーズに応じたサービスの向上につとめる方針を打ち出し、昭和63年には和寒駅の駅舎改築に着手した。昭和10年に新築となった駅舎も50年を経て老朽化著しく、町の顔ともなる駅舎の改築は町民の願いでもあった。昭和63年11月30日完成の駅舎は塩狩峠をイメージした外観で、淡い色調を持つ瀟洒な建物となったのである。駅舎内には売店も開業したが、利用客は少なく、一時期をもって閉店した。今も一般乗客はもとより、通勤通学者の利用も多いが、乗降客の状況は無人駅になってから統計がとられておらず、その状況を知る資料はないのである。

《出典》
北海道上川郡和寒町(2000)『和寒町百年史』p.507
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和寒駅 簡易駅舎 待合室
和寒駅a06
和寒駅 簡易駅舎 待合室
和寒駅a07

待合室の様子。
なかなか広めの室内には、緑色の4人掛けベンチが5脚置かれています。
アーチの中は吹き抜けになっており、大窓から光が差し込むので曇り空でも明るいですね。
かつては売店が入居していましたが、閉店から30年近い歳月が経過し痕跡は見られません。


和寒駅 簡易駅舎 待合室 出札窓口 駅事務室
和寒駅a08

出札窓口は板で封鎖されていますが、その窓枠と出札棚は綺麗な状態で残っています。
この窓口では売店が廃業した後、士別駅から派遣されてきた駅員が3年間に渡って乗車券を販売していました。
売店の廃業に伴い駅員を派遣するという対応は、同じ宗谷本線の豊富駅でもありました。


和寒駅 簡易駅舎 待合室 出札窓口 駅事務室
和寒駅a12

窓口営業を全廃しているにも拘らず、出札窓口の右脇には「Sきっぷ」や「快得きっぷ」を宣伝する貼り紙が掲示されていました。
何故か士別~札幌間の「Sきっぷ」の金額を載せていますが、わざわざ和寒駅から士別駅まで北上して、そこから来た道を戻りつつ札幌駅まで南下する住民がいるのでしょうか?


和寒駅 簡易駅舎 待合室 出札窓口 駅事務室
和寒駅a09

現在の駅事務室は保線作業員や電気作業員が、線路や信号機などの補修工事を行う際の詰所として活用されています。
出札窓口の左脇にあるドアにも、「用事のある方はノックして下さい 作業員詰め所」との貼り紙を出しています。
もちろん作業時のみ使用される詰所なので、常駐する係員は一人も居ません。


乗務員休憩室 乗務員宿泊所 和寒駅
和寒駅a10

出札窓口の真向かいにあるドアには・・・


乗務員休憩室 乗務員宿泊所 和寒駅
和寒駅a11

・・・「乗務員休憩室」と書かれた小さな貼り紙が1枚。
無人化後に建設された駅舎で「乗務員休憩室」ってどういう事よ?
しかしよく考えてみると、和寒駅の南方には宗谷本線きっての難所・塩狩峠が立ちはだかります。
塩狩峠は大変な急勾配ゆえ、客車列車や貨物列車がそれを越えるためには機関車1両の牽引力では足りなかったのです。
そのため1996年9月に廃止された名寄行きの貨物列車に至るまで重連運転を実施していたのですが、確か昔の『鉄道ジャーナル』に客車時代の急行利尻のルポ記事があって、編成後方に補助機関車を連結するプッシュプル運転で対処していた・・・と薄っすら記憶しています。
そして補助機関車の増解結は和寒駅で実施していたはずなので、運転士も和寒駅に降りてしばしの休養を取るべく駅舎内の乗務員休憩所を利用した模様。


和寒駅 簡易駅舎 宗谷本線 塩狩峠
和寒駅a13

ホーム側から駅舎を眺めた様子。


和寒駅 プラットホーム 島式ホーム 単式ホーム 国鉄型配線
和寒駅a14
和寒駅 プラットホーム 島式ホーム 単式ホーム 国鉄型配線
和寒駅a16
和寒駅 プラットホーム 島式ホーム 単式ホーム 国鉄型配線
和寒駅a15

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を組み合わせた、いわゆる国鉄型配線。
両ホームは向かい合う距離が極めて短く、ほとんど千鳥配置です。
駅舎側の単式ホームが1番線で下り列車(名寄・稚内方面)のみ使用。
島式ホームの内側が2番線で上り列車(旭川・札幌方面)のみ使用、その外側が3番線で上下双方の待避線として使用されます。
両ホームとも20m車6~7両分はありそうな長さですが、島式ホームの稚内方は切欠き部分が結構長く、3番線の有効長が3両分しかありません。


和寒駅 跨線橋 国鉄型配線
和寒駅a17

両ホームを繋ぐ跨線橋。
外壁・屋根ともにトタン板が張られています。


和寒駅 跨線橋 国鉄型配線
和寒駅a18

1番線の跨線橋前には上屋が設けられています。


跨線橋 陸橋 人道橋 和寒駅
和寒駅a19

駅舎正面左側には市街地の東西を繋ぐ跨線橋があります。
この跨線橋は1973年に建設された物です。


和寒駅構内 貨物側線 プラットホーム
和寒駅a20
和寒駅構内 貨物側線 プラットホーム
和寒駅a21

青い跨線橋の上から駅構内を俯瞰した様子。
貨物取扱の面影を感じる広々とした構内には、2本の貨物側線が残されています。
現在は保守用車の留置線として活用されており、すぐ近くには更換用のレールが積まれていました。


キハ40系700番台 キハ40形700番台 キハ40-730 旭川運転所
和寒駅a22

キハ40系の普通列車を降りて家路に着く高校生達。
和寒町には高校が無く、町内在住の高校生は士別・名寄方面に通学します。



和寒駅前食堂つたやa01

和寒駅前には「駅前食堂つたや」との看板を掲げた食堂があります。
玄関に「つたや食堂」と書かれた暖簾を出していれば営業中です。
営業時間は毎日11:00~20:00で、毎年元旦のみを定休としています。



和寒駅前食堂つたやa02

正面玄関の頭上には「塩狩峠を走るSLの勇姿」を捉えた写真を掲げています。


和寒駅 国鉄時代 駅弁立売 構内立売業者 立売営業
和寒駅前食堂つたやa03
和寒駅構内で駅弁を売って回る坂本孫一氏
北海道上川郡和寒町(1975)『和寒町史』p.409より引用

「つたや」の始まりは1927年1月に営業を開始した、坂本孫一さんによる駅弁の立売です。
坂本孫一さんは元国鉄職員で、札幌鉄道局に10年間勤務した後に独立し、ガラス工場を経営していました。
しかしその事業に失敗したため、古巣の国鉄より1926年11月に構内立売営業の認可を得て、翌年の元旦から駅弁を売るようになったのです。
やがて息子の坂本幸作さんも、父親と共に駅構内を練り歩くようになりました。
坂本家による駅弁立売は『和寒町史』でも紹介されていますので、以下に引用しましょう。

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駅弁売り2代・・・坂本親子

 和寒駅構内に列車が入ると“すし、べんとうー”の呼び声が威勢よく駅頭に響く。親子2代にわたり昭和の歴史と共に歩んで来た構内立売業「つたや」の呼び声である。
 和寒駅は旭川と名寄の中間にあり、蒸気機関車の補炭給水と塩狩峠を上下するため機関車の増結切離しをするため、停車時間は長い。その間、車窓を縫って往来する坂本孫一・幸作の呼び声は、退屈した旅行客を慰め旅愁を誘ってきた。
 先代の坂本孫一は札幌鉄道局に10年勤務したあと、ガラス工場を経営したが失敗、大正15年11月26日構内立売営業許可を得て、昭和2年元旦からハッピ姿で駅頭に立ち、駅弁売りを始めた。当時は弁当30銭、すし20銭、まんじゅう、もち、おはぎ15銭、お茶5銭、お茶の注ぎ替え2銭。1日に70円もの売り上げがあったという。すし、べんとう、酒、サイダー、果物、新聞、タバコ、マッチ、お茶、特製の菊まんじゅう、豆大福、しぼりたての濃厚な牛乳が評判になり、よくとおる青森訛りの呼び声が人気を呼んだ。戦後も相変らずの美声と品のいい銀髪で旅客に親しまれたが、昭和40年11月28日立ち売り箱を抱えて国道横断中トラックにはねられ70年の生涯を閉じた。
 現在は幸作・清子夫妻が亡父の残したノレンを守り、さらにトンカツべんとうなど工夫をこらしているが、停車時間が短くなったので昔の情緒は失われている。それでも昔なじみ客のほか、マイカー族やSLマニヤも買い求めて行くという。
 「重ー滴水、尊ー粒米」という包装紙の文字は、昭和21年坂本宅に立ち寄った禅僧が色紙に書いたものをそのまま用いている。

《出典》
北海道上川郡和寒町(1975)『和寒町史』p.409
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往事の「つたや」を知る人達の間では、息子の幸作さんが考案した「とんかつ山菜弁当」の人気も高かったとか。
「つたや」は1980年代を最後に駅弁の販売をやめたといいますが、それでも先代から譲り受けた屋号を守り続けています。


※写真は特記を除き2017年5月1日撮影


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最終更新日 : 2020-08-30

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