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2020-08-08 (Sat) 00:50

宗谷本線剣淵駅 「絵本の里」に広がる鉄道林「深川林地」

剣淵駅a01

上川管内は上川郡剣淵町仲町にある、JR北海道の剣淵(けんぶち)駅。
剣淵町は宗谷本線きっての難所・塩狩峠を構える、和寒町の北隣に位置します。
町の起源は書類上、天塩国上川郡に剣淵村が設置された1897年となりますが、実際に開拓が始まったのは2年後の1899年7月でした。
この頃に屯田兵が士別まで北上しており、剣淵にも屯田兵337戸の入植によって鍬が入れられたのです。
そしてこれら屯田兵は日本における最後の屯田兵であり、同年を以って屯田兵の募集が打ち切られる事となりました。
屯田兵とは平時に農耕を行い、なおかつ北海道の防衛を担う兵農兼業の土着兵です。
剣淵の屯田兵達は神戸や尾道、門司など瀬戸内海沿岸から集結した人々で、手始めに森林の伐採に取り掛かるのですが、兵士の多くはノコギリやマサカリさえ上手く使えず、開拓は困難を極めたそうです。

その苦労がやがて実を結ぶ事となり、当初は馬1頭に始まった畜産も、現在では乳牛600頭を筆頭に肉牛33頭、馬36頭、鶏17羽、ヤギ2頭、アルパカ9頭、養蜂210群を数える規模になりました。
酪農家は稲作・畑作を兼業する世帯ばかりで、畑作ではジャガイモ、トウモロコシ、アスパラ、カボチャ、キュウリ、人参、玉ねぎ、カラフルミニトマト、ビーツなど多彩に生産しています。
そして剣淵駅は中心街の東側に置かれており、駅前にはJA北ひびき剣淵基幹支所の古い3階建てビルがどっしりと構えるほか、農業倉庫群や剣淵町役場も至近にあります。
駅の北側にはメインストリートの温根別ビバカルウシ線が東西に延び、それを軸に商店街が形成されています。
また、駅から北へ9分ほど歩くと北海道剣淵高校がありますが、寄宿舎を構えている事もあって列車通学する生徒をあまり見かけません。
逆に剣淵町在住で、士別翔雲高校や名寄高校などに通学する生徒達は専ら列車通学ですね。


JR北海道 国鉄 宗谷本線 天塩線 宗谷線 木造駅舎
剣淵駅旧駅舎1
1920年頃に撮影された剣淵駅前の風景
奥に見えるのが剣淵駅の旧駅舎で、元は木造下見張りの平屋が建っていた
北海道上川郡剣淵町(1979)『剣淵町史』p.970より引用

剣淵駅は1900年8月、北海道官設鉄道天塩線(現:宗谷本線)和寒~士別間の延伸開業に伴い、一般駅として開設されました。
北海道官設鉄道は1905年4月、道庁から鉄道作業局(後の鉄道省)に移管されており、天塩線も例外に漏れず国鉄の管轄となりました。
また、開設当初は駅名の読みを「けぬふち」としていたのですが、国鉄移管に伴い「けんぶち」に変更されました。
「けぬふち」はアイヌ語の「ケネ・プチ」(意訳:ハンノキ林の川)に由来しており、それに因んで商店街にある和菓子店「やまだ菓子舗」も剣淵銘菓「ケネプチさぶれ」を製造販売しています。

初期の剣淵駅について、書籍『剣淵町史』の記述を引用しましょう。
この頃は屯田兵達が開墾に悪戦苦闘しており、列車に積載する貨物も野菜や穀物は無く、原木がメインだったようです。
当時の剣淵は森林が広がっており、地元では伐採した木を鉄道用の木マクラギ等に製材するようになりました。
1909年からは陸軍省の指定により、軍馬の飼料となる燕麦の生産が開始され、剣淵駅も燕麦の輸送拠点として大いに機能した事が窺えます。

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 剣淵駅の開駅は、屯田兵が入地をみてから約1年1ヵ月を経た明治33年8月5日である。開駅当時の村の産物は原木が主で、駅からの輸送もごく少なかった。
 しかし、開拓が進むにつれて集荷物も多くなり、林産物では原木のほかに鉄道枕木、角材、銃床、染料樹皮なども輸送をみるようになった。特に明治42年(1909)に陸軍省から軍馬用えん麦の耕作地として指定を受けてからは増反増収が促進されて生産高の8割あまりを出荷し、その額は当時の金額で6万円以上にも達した。このため、駅前にはえん麦が山のように積み込まれて、活況をみせるようになった。

《出典》
北海道上川郡剣淵町(1979)『剣淵町史』p.p.970,971
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JR北海道 国鉄 宗谷本線 天塩線 宗谷線 JR貨物 貨物列車 貨物取扱
剣淵駅a04

大正時代に入ると1912年9月、国鉄天塩線が宗谷線に改称。
更に7年後の1919年10月には現路線名の宗谷本線に改称されています。
この間にも剣淵町内では新たな産業が勃興しており、特に除虫菊(シロバナムシヨケギク)の栽培やジャガイモを原料とした澱粉の製造、木工といった事業は貨物輸送に大きな存在感を放っていました。

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 その後、大正2年からは除虫菊の栽培が盛んになり、第1次世界大戦時の好景気期には価格が暴騰したことから、傾斜地を中心として急激に栽培面積が増加し、輸送量にさらに拍車がかけられることとなった。また、大正3年頃からでん粉業者が次々と増えてきたが、同5年にはでん粉価格が大幅にはね上がったことにより、翌6年における馬鈴薯の作付面積は2,560町(2,539ヘクタール)にも達し(分村前の温根別含む)、でん粉生産量は飛躍的な伸びを示した。このように、明治の後期から大正初期にかけては、えん麦、除虫菊、でん粉が中心となり、菜豆類なども大量に輸送されるようになった。また、剣淵中央土功組合が大正10年(1921)10月にかんがい溝の大改修工事を竣工してからは、水田の作付面積も大幅に伸びた。さらに翌11年には北静川土功組合、12年には東剣淵土功組合が創立されて、昭和3年における水田耕作面積はついに1,362.8町(約1,352ヘクタール)に及び、同年はかんばつにより減収をきたしているが2万640俵を輸送している。このことから、剣淵における駅の輸送量は農産物を中心として伸展してきたことは確かである。
 しかし、一方で大正3年に大正製麻工場が設立され、同5年頃に又野木工場、同6年頃に足立木工場が設立されたことによる工業製品、さらには大正4年における電柱、薪炭材、製材原料木などの林産物が13万円あまりに達していることからして、これらによる輸送量が大きな率を占めていたことも見逃すことが出来ない。

《出典》
北海道上川郡剣淵町(1979)『剣淵町史』p.971
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戦後の1949年9月、地元有志の企画によって「鉄道開通50周年記念式」が剣淵駅で挙行されました。
このイベントは町民各世帯に寄付を募っており、1世帯につき平均70円を受領し、合計にして10万円を総経費として支出しています。
そして記念事業として剣淵駅前に広告塔を新設し、プラットホームにおいても生け垣の植樹が為されました。
各種余興も企画されており、宗谷本線沿線の各中学校を集めての野球大会や、花相撲、映画上映などが催されています。
記念式は9月14日・15日の2日間に渡り開催されました。

記念式での植樹から10年後の1959年7月にも、プラットホームにて花壇が設置されており、その後は町民や剣淵高校の生徒達が花壇整備に協力しています。
昭和50年代当時は剣淵駅の花壇が、宗谷本線の名所の一つとして注目を浴びていたのだとか。

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・・・剣淵駅では、昭和34年7月19日上りホームに2ヵ所、下りホームに1ヵ所の花だんを設け、その後拡張を図ると共に、町民や剣淵高校などからの協力を得ながら土壌改良、育苗、移植にと努力が重ねられた。この結果、今では春から秋にかけて上・下両ホームいっぱいに美しい花が咲き誇り、宗谷本線での名所の一つに数えられるまでになった。50年には町公民館主催の花だんコンクール公共施設の部で第1回目の最優秀賞を受賞し、以後連続して最優秀の栄冠を他に譲ってはいない。

《出典》
北海道上川郡剣淵町(1979)『剣淵町史』p.p.973,974
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1968年3月、宗谷本線新旭川~音威子府間に連査閉塞が導入された事に伴い、従来のタブレット閉塞が廃止。
ホーム上でタブレット交換をしていた剣淵駅の当務駅長(助役・運転掛を含む)も、新たに設置された連査閉塞装置の制御を担うようになりました。


JR北海道 国鉄 宗谷本線 天塩線 宗谷線 JR貨物 貨物列車 貨物取扱
剣淵駅a03

剣淵駅は1959年にピークを迎えており、年間の乗降客数は50万人に迫る勢いだったのですが、国鉄の赤字経営が顕在化すると1966年頃から駅の利用が低迷するようになりました。
1976年までの10年間で乗降客数は10万人も減少し、貨物利用についても1万トンを下回るまでに激減。
国鉄当局が合理化を推し進めていくうちに、1982年11月に貨物フロント業務が廃止されました。
更に1984年2月ダイヤ改正で全国のヤード系集結輸送が廃止されると、剣淵駅の手小荷物フロント業務も廃止されています。
1984年11月には旅客フロント(出改札業務)も廃止となり、出札業務が簡易委託化されました。
ただし宗谷本線新旭川~音威子府間は連査閉塞のままだったので、閉塞装置を取り扱う当務駅長(助役・運転主任を含む)のみ引き続き配置されました。

1986年11月には宗谷本線永山~南稚内間に特殊自動閉塞(電子符号照査式)が導入され、車載器と閉塞装置の相互通信により信号設備を操作するようになりました。
これにより当務駅長が閉塞装置を扱う必要は無くなり、駅員無配置となりました。
書籍『百年のあゆみ 剣淵町史 続史一』によると完全無人化に伴い士別駅の管轄に移されたとの事なので、フロント業務を全廃した後も剣淵駅長は勤務していたようです。
国鉄末期のローカル線では剣淵駅のように窓口営業を無くして、運転取扱業務を担当する駅員のみ配置する駅が全国各地で見られました。
しかしその多くは駅長・助役の配置をやめて運転主任(分割民営化後の輸送主任)のみ配置する形態だったので、剣淵駅の例は何とも奇妙な話だなあ・・・と思う次第。

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 剣淵駅を見てみると、昭和34年が乗降者のピークで50万人近くであったが、国鉄の赤字経営が始まったと言われている2年後の、41年頃から駅の利用が衰退し始め、乗車数で41年の22万2千人、10年後の51年には12万8千人と10万人近く減少している。また、貨物発送は46年の2万1千tから51年には9千tと半分以下となった。その後は、国鉄の合理化が進み、昭和57年貨物の取り扱い廃止、61年には駅員がいない無人駅(士別駅の管轄)となり、国鉄が民営化された昭和62年からはJR北海道剣淵駅となった。・・・

《出典》
剣淵町(1999)『百年のあゆみ 剣淵町史 続史一』p.709
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1987年4月の分割民営化では、剣淵駅をJR北海道が継承しています。


JR北海道 国鉄 簡易駅舎
剣淵駅a02

現在の駅舎は分割民営化後の1988年11月に竣工した物で、JR北海道と剣淵町役場が費用を出し合って建設されました。
初代の木造駅舎に比べて小さくなり、出札窓口も無い簡易駅舎です。
ただし駅事務室は設けられており、保線作業時の詰所として使用されています。

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・・・さらに、JRから剣淵駅の老朽化と経費削減のため駅の改築計画(駅舎を縮小する)の申出があり、町としても駅舎の活用から、観光物産館(一村一品運動の推奨)とバスターミナル(町有バスの待合所)を兼ねた駅舎が最良として、「JR剣淵駅と剣淵町観光物産館兼バスターミナル」の合築が決まり、昭和63年11月に新たな剣淵駅が完成した。今では剣淵駅、剣淵町観光物産館、剣淵町営バスターミナルと3つの役割を持って利用されているが、当時の面影はない。

《出典》
剣淵町(1999)『百年のあゆみ 剣淵町史 続史一』p.p.709,710
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簡易委託駅 士別駅 剣淵駅 軟券 常備券 切符
剣淵駅a05

駅舎正面の壁には士別駅長名で、簡易委託窓口に関する案内が掲示されています。
剣淵駅では駅前の㈲丸八おざわ商店に普通乗車券の販売を委託しており、常備券のみ取り扱っています。
常備券の行先は、旭川駅、永山駅、和寒駅、士別駅、名寄駅の5ヶ所に限定。


簡易委託駅 士別駅 剣淵駅 軟券 常備券 切符 剣淵駅簡易委託販売所
剣淵駅a06

こちらが簡易委託販売所に指定されている丸八おざわ商店で、「道新ぶんぶんクラブ」にも加盟しています。
外壁にサイディングを施した看板建築です。
主に酒類や食料品を販売しており、店先にも飲料自販機とタバコの自販機を置いています。
営業時間は平日・土曜の7:00~17:30で、毎週日曜を定休としているほか、年始の1月1日~3日も休業となります。
正式な名称は「小沢」を平仮名表記にした「有限会社丸八おざわ」であり、店の看板にも同様に明記されているのですが、ネット上では何故か「丸八小沢商店」という間違った表記が広まっています。


待合室 簡易駅舎 簡易委託駅 剣淵駅
剣淵駅a07
待合室 簡易駅舎 簡易委託駅 剣淵駅
剣淵駅a08

簡易駅舎のコンコースの様子。
正面玄関から入って右奥に駅事務室の出入口があり、そのドアには「JRけんぶち管理室 関係者以外立入禁止」との注意書きが貼られています。
事務室単体の名称は「けんぶち管理室」なんですね・・・駅名が漢字表記なのに、管理室は平仮名表記という謎の呼び分け。
管理室・・・といっても、保線所がここに保線管理室を設けているという訳ではなく、常駐する保線係員は一人も居ません。
周辺で線路の補修工事を実施する時のみ、保線係員が出入りします。


士別翔雲高校 士別駅 剣淵駅 待合室
剣淵駅a08-2

コンコースには士別翔雲高校が制作したポスターが貼られていました。
剣淵町在住の生徒達に配慮し、通学列車の時刻をでかでかと表記。



剣淵駅a08-1

こちらも同じくコンコースに貼り出されていたポスター。
剣淵町は「絵本の里」として町おこしを展開しており、1991年から毎年8月1日~9月30日に「けんぶち絵本の里大賞」のコンテストを開催しています。
この「絵本の里大賞」は剣淵駅から北西575mにある「剣淵町絵本の館」の来館者を対象に、前年4月1日~今年3月31日までの間に出版された絵本の中から好きな物を選んでもらい、その投票数が最も多かった作品に贈られる賞です。
撮影当時は2019年で、同大賞は第29回を数えるほどに定着しています。

なお、剣淵町がどうして「絵本の里」を標榜しているのかというと・・・。
1988年2月、剣淵町商工会青年部が士別市在住の版画家を講師に招き、まちづくり講演会を開催しました。
その時に版画家の先生から「福武書店に勤める知り合いの児童図書編集長が北海道に住みたくて家を探している」と聞き、青年部が是非会いたいと申し出た事から、同編集長と直接対面する事になりました。
編集長は早くも翌月に剣淵町を訪れ、青年部に案内されて町内を周遊。
すると広々とした田園風景と、山と森に囲まれた桜岡湖を見て、こう仰られたというのです。

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『この町はヨーロッパの風景と似ていますね。ヨーロッパでは、絵本の原画は芸術品として高く評価され、あちこちのまちに絵本原画の美術館があります。しかし、日本では個人の美術館がわずかに所蔵展示しているだけです。絵画と違って、絵本の原画はページ数分が全てそろって一つの作品です。いろいろな作家の作品を集めて、だれもが見たいときに見ることができる原画美術館が日本にも欲しいと思っているのです。』

《出典》
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この話がきっかけで剣淵町の絵本美術館構想が生まれ、絵本の里づくりに向かっていく事となりました。
3年後の1991年8月には「剣淵町絵本の館」が開館し、この頃から「けんぶち絵本の里大賞」を続けています。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
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剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
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剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
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コンコース左手のガラスの扉を開けて、「剣淵町観光物産館兼バスターミナル」の中へ。
この部屋こそが前掲の、剣淵町が費用を負担して合築した施設です。
もし剣淵町が合築を決めず、JR北海道が当初予定通りに駅舎を建て替えていたら、現在の2/3程度の規模になっていたでしょう。
バスターミナル・・・と言えば聞こえは良いですが、路線バスの乗車券や定期券を販売する窓口はありません。
というかバスの存在が地味すぎて、バスターミナルすらJRの待合室といった塩梅。
トイレが設けられており、ストーブも常設されています。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
剣淵駅a12

「剣淵町観光物産館」という名称に相応しく、室内には剣淵町をPRする展示物があります。
こちらは「剣淵町さんぽ」と題した観光案内マップ。
もちろん「絵本の館」を筆頭に、薪で燻すスモークドチキンが人気の「ゴトウくんせい」や、ラーメンとカレーが大人気の食堂を兼業する「駅前旅館」、アルパカを飼育し毛で手袋やマフラー等を作る「ビバアルパカ牧場」、桜岡湖に程近い「剣淵温泉レークサイド桜岡」など、町内の名所を紹介しています。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
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「剣淵町さんぽ」の隣にはショーケース。
「けんぶちにんじんジュース」、「夢みるトマト」、「しそしそ話」といった個性的な野菜ジュースに、ゴトウくんせいのスモークドチキン、やまだ菓子舗の「剣淵銘菓わらび餅」、トイ・トイ・トイの「シフォンのラスク」、マルワカ食品の「屯田三色めん」、「元気福みそ」、馬鈴薯でんぷん、早乙女養蜂場の「純粋はちみつ」といった特産品を展示しています。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
剣淵駅a15

物産館の室内にも「絵本の里けんぶち」をPRするポスターが貼られています。
先述の編集長が放った一言を彷彿とさせる、「フランスの田園風景みたい。」とのキャッチコピーを添えています。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
剣淵駅a16

マンホールまでも絵本の里仕様。
剣淵のマスコットキャラクターである、アルパカの「ぷっちーな」が描かれています。
町内でマンホールカードの無料配布をしているんですね。


剣淵町観光物産館兼バスターミナル 待合室 剣淵駅
剣淵駅a14

そしてこちらが剣淵町営バスの時刻表。
4つの路線が設定されていますが、何れも宗谷本線とは比べ物にならない本数の少なさ。


JR北海道 国鉄 簡易駅舎
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ホーム側から駅舎を眺めた様子。
左側に駅事務室の窓があります。


相対式ホーム プラットホーム 剣淵駅
剣淵駅a19
相対式ホーム プラットホーム 剣淵駅
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2面2線の相対式ホーム。
両ホームとも全長は20m車3両分ほどです。
駅舎側が1番線、反対側が2番線で、1番ホームの横幅が広々としています。
番線は方面別に振り分けておらず、上下列車とも基本的に1番線を使用。
通過列車の待避や、列車交換の時に2番線を使用します。
床面は細かな砂利を敷き詰めており、縁端にはコンクリートブロックを据え付けています。
特急列車は全て通過しますが、快速なよろ・普通列車は全て停車します。



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両ホームを繋ぐ跨線橋。
簡素なデザインの駅舎に比べ、国鉄時代の面影をありありと感じさせます。



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跨線橋の出入口をよく見ると、「のりば1」と書かれている下に「小樽ゆき」の表記が残っているのを確認できます。
宗谷本線で小樽まで行く列車かあ・・・これって急行宗谷が函館~小樽~札幌~旭川~稚内と直通運転していた頃の貴重な痕跡では?
…となれば1964年10月ダイヤ改正で設置された物でしょうか?
でもそれなら「函館ゆき」と書くはずだよなあ・・・という事は、急行なよろが小樽~札幌間を普通列車として走った1978年10月ダイヤ改正時点での掲出だったのかも。


貨物積卸線 跨線橋 貨物ホーム プラットホーム
剣淵駅a24
貨物積卸線 跨線橋 貨物ホーム プラットホーム
剣淵駅a25

1番線の跨線橋脇には貨物積卸線のプラットホームが残っています。
『剣淵町史』によると、どうやらここには跨線橋に近接して「貨物吹き抜き倉庫」なる施設が建っていたようです。

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 昭和30年(1955)3月25日には現在の道道踏切に警報機が設けられた。また、昭和45年(1970)6月5日午後5時15分頃の出火により貨物吹き抜き倉庫が炎上、跨線橋が半焼したが、同年9月3日には跨線橋の補修を完了、同月20日には間口が10.8メートル、奥行6.0メートルの貨物吹き抜き倉庫が落成をみている。・・・

《出典》
北海道上川郡剣淵町(1979)『剣淵町史』p.972
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引用文には「貨物吹き抜き倉庫」で1970年6月に火災があり、跨線橋にも燃え移ったこと、そして同年9月に跨線橋と「貨物吹き抜き倉庫」がそれぞれ復旧している旨が書かれています。
でも「吹き抜き倉庫」ってどんな建物だったんでしょうね?
おそらくは大半の壁を省略した、開放的かつ簡素な構造の「貨物上屋」を指しているのではないかと思いますが・・・。

なお、この貨物積卸線に面して農業倉庫が集まっており、その倉庫群の内側に入る専用線も国鉄時代は敷かれていました。
専用線を使用していたのは剣淵農協(現:JA北ひびき剣淵基幹支所)で、日本通運㈱と士別通運㈱が運送を受託するものでした。
しかも私有のスイッチャー(貨車移動機)まであったのだとか・・・たった0.4kmの短さで。


ストックヤード 貨物側線 剣淵駅
剣淵駅a26

2番線ホームの外側にも意味深な空間が広がっています。
ここにも国鉄時代は貨物積卸線が敷かれており、木材を集約したストックヤードも隣接していました。
こちら側もJA北ひびき剣淵基幹支所の農業倉庫群があり、主にジャガイモの集約保管に使われているようです。



剣淵駅a27

ホーム上の駅名標。



剣淵駅a28

「絵本の里けんぶち」をPRする観光案内板。
剣淵町役場と剣淵町観光協会が共同で設置した物のようです。


道北流氷の恵み 道北 流氷の恵み 北海道の恵みシリーズ キハ40系 旭川運転所
剣淵駅a29

1番線に入線したキハ40-1720「道北 流氷の恵み」。


深川林地 鉄道林 防風林 名寄営林区 防雪林
剣淵駅a30

剣淵周辺の線路沿いには広大な鉄道林が形成されており、私などは列車の車窓から眺めるたびに心が躍ります。
和寒駅付近より北剣淵駅付近に至るまで、12.7kmに及ぶ見事な規模の防雪林です。
剣淵駅から約560m北、宗谷本線剣淵~北剣淵間の鉄道林の中には「緑林護鉄路 深川林地」と書かれた石碑が佇んでいます。
石碑の建つ場所は通常、立ち入る事が出来ないため、走行中の列車から眺めざるを得ません。
この深川林地は鉄道史に名を刻む重要な土木遺産であり、道内屈指の豪雪地帯である名寄盆地において果たす効果は並々ならぬものです。
深川林地という名前の由来は、この鉄道林を作り上げた国鉄職員・深川冬至氏によります。
そして「緑林護鉄路 深川林地」の石碑は、深川氏の功績を讃えて1966年に建立されました。

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 剣淵泥炭地の歴史となっている「深川林地」は、鉄道マン深川冬至が完成させた鉄道防雪林である。深川冬至は、明治30年12月16日愛媛県で生まれ、冬至の日に出生届を出したので冬至となった。鉄道林に生涯をささげ、昭和18年3月に48才の若さで一生を終えている。
 積雪寒冷地帯を走る鉄道の冬は雪との戦いであり、防雪林は重要である。和寒ー士別間の剣淵泥炭地帯の防雪林地には、大正14年にヤチダモが植えられていたが、その成育は極めて悪く、ほとんどが枯死に近く、湿地帯に木を植えることは疑問視、冒険視されていた。湿地帯に防雪林をと決意し、「国鉄の名誉にかけても不毛の地に林をつくらなければならない」と剣淵泥炭地に戦いを挑んだのは、大正15年に国鉄名寄保線事務所に転任してきた深川冬至である。
 深川冬至は、着任の年から泥炭地の調査研究や排水溝の整備改良などを行い、これまでのヤチダモに代えて、そのころ盛んに輸入され不毛の地に強いといわれた欧州トウヒを植えた。夏の乾燥時には水を与え、成長に合わせて排水溝をさらに深くするなど、これらの作業が繰り返されて、剣淵泥炭地に見事な樹林が出現した。
 鉄道防雪林への情熱と鉄道を守る縁の下の力持ちとして、とりわけ「不毛といわれた剣淵泥炭地」に防雪のための美林を育て上げた「深川冬至」の不滅の功績を永久に残そうと、深川冬至が一生を終えた年の昭和18年に、当時、札幌鉄道局稚内管理部長の熊谷綾雄が和寒ー士別間の鉄道防風林を深川冬至の氏をとって「深川林地」と命名した。そのとき木碑が建てられたが、41年に石碑「緑林護鉄路」となって残され、その功績を称えている。
 深川林地は、深川冬至が育ててから70年余りの時は流れたが、剣淵泥炭地の歴史、鉄道防雪林の歴史となって、いまも見事な美林である。

《出典》
剣淵町(1999)『百年のあゆみ 剣淵町史 続史一』p.p.711,712
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国鉄時代は鉄道林の保守を専門とする名寄営林区が、深川林地の管理を担ってきました。
名寄営林区はJR北海道に継承され、1990年3月の組織改正により「名寄営林所」に改称しましたが、同年10月の工務系統を対象とした現業機関の再編によって廃止。
これに伴い名寄営林所が担当してきた営林業務は、名寄保線所と名寄電気所を統合し発足した名寄工務所の土木テーブル(土木助役を筆頭に土木構造物の管理を担当する部門)に継承されました。
その後の1991年11月、宗谷北線運輸営業所が発足すると名寄工務所も同営業所に吸収。
名寄以南の保線業務は旭川保線所に移管されたため、旭川保線所土木テーブルが深川林地の営林を担うようになったそうです
宗谷北線運輸営業所は2016年4月に工務部門を分離しており、これに伴い名寄保線所と旭川電気所名寄派出所が発足。
これに伴い旭川保線所名寄保線管理室も名寄保線所に移管されたため、現在は深川林地の保守を名寄保線所土木テーブルが担当しているのだとか。
深川林地は現在も、人知れず鉄道マン達のたゆまぬ努力によって守られています。


※写真は特記を除き2019年10月13日撮影

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最終更新日 : 2020-08-30

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