タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-07-06 (Mon) 22:51

根室本線芦別駅[1] 炭鉱都市の石炭輸送拠点と「芦別事件」の冤罪

芦別駅a01

空知管内は芦別市本町にある、JR北海道の芦別(あしべつ)駅。
かつて空知炭田の一翼を担った芦別炭鉱のお膝元に開設され、石炭輸送拠点として大いに機能した駅です。
芦別の歴史は明治時代まで遡り、1893年に山形県人の佐藤伝次郎が入植した事に始まります。
次いで1894年に富山県人と石川県人の各集団が入植し、現在の芦別市の礎を築きました。
石炭の採掘は和人達の定住から3年後の1897年に開始し、当初は小規模なものでしたが、1913年には三菱合資会社(後の三菱鉱業)が上芦別池田鉱業用地を買収して採炭に乗り出しました
その後、三井財閥も1938年に三井芦別鉱業所を開設し、他にも芦別高根炭鉱、東芦別炭鉱(後の明治鉱業上芦別炭鉱)、油谷芦別炭鉱と3社が新たに操業。
1950年代に入ると石油の台頭による「エネルギー革命」が起こり、芦別炭鉱でも1960年代に閉山が相次ぎました。
なお、三井芦別炭鉱は平成に入ってからも暫く操業を続け、1992年の閉山を以って芦別炭鉱の歴史に幕を下ろしています。

駅の東側には炭鉱都市の面影を残す繁華街が広がり、年季の入ったビルや看板建築が所狭しと並んでいます。
昭和のムードが色濃く感じられる街並みですので、駅を訪問するついでに散策してみるのも良いでしょう。
駅前寄りには居酒屋とスナックが多く、他にも焼肉屋、寿司屋、定食屋・・・と飲食店が集中。
商店街は国道452号線を挟んで更に東へと続き、魚屋、電器屋、写真屋、文房具屋、書店、ブティック、靴屋、時計屋、仏壇屋、和菓子屋など、多種多様な店舗がひしめきます。
また、アークスグループのラルズマート芦別店も食料品・衣料品の2フロア体制で営業しています。

商店街の外れには芦別市役所があり、駅から徒歩6分程度。
市役所から更に東へ11分ほど住宅地を歩くと、芦別市立図書館と市立芦別病院があります。
芦別駅の東南東には北海道芦別高校もあり、滝川・赤平方面および野花南方面から同校に通学する生徒達が根室本線を定期利用しています。

一方、駅から北北西へ1.5km、芦別本町地区の北端にはジンギスカンのタレで知られる調味料メーカー、㈱ソラチの本社工場があります。
このソラチで作っているタレと、札幌の二十四軒に本社を置くベル食品㈱のタレが道民にとって馴染み深いジンギスカンのタレであり、しかも人によって定番が分かれがちです。
ちなみに私はソラチ派ですが、2歳年下で非鉄の弟はベル派。
同じ釜の飯を食べた兄弟でも好みが分かれますw


JR北海道 国鉄 根室本線 芦別駅 木造駅舎 石炭列車 貨物列車 JR貨物 成吉思汗
芦別駅a02

前置きが長くなりましたが、芦別駅の沿革を見ていきましょう。
当駅は1913年11月、国鉄釧路本線滝川~下富良野(現:富良野)間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
開業当初の駅名は「下芦別駅」と言い、本町地区の旧字名である下芦別を駅名に採用しました。
一方、本町地区から芦別川を越えて南方には上芦別町があり、芦別市内を南北に流れる空知川の上流に位置する地域を上芦別、下流に位置する地域を下芦別と称した訳です。
後の1920年1月には上芦別駅も開設され、2駅で芦別炭鉱の石炭輸送を支える体制を築きます。

三井芦別炭鉱も国鉄線への連絡による石炭輸送を為すべく、試掘から2年後の1940年12月、「三井鉱山芦別鉱業所専用鉄道」として下芦別~西芦別間の運用を開始しました(後の三井芦別鉄道)。
当初は国鉄に運行管理を委託しており、滝川機関区の9600形蒸気機関車が牽引機として運転されたほか、同機関区と旭川車掌区滝川支区(後の滝川車掌区)が乗務を担当していました。
程なくして芦別鉱業所が職員750人を抱え、その家族を含めて西芦別の人口が約3,300人に膨れ上がると、下芦別との交通手段の確保が急務となりました。
そこで三井鉱山は1946年4月、鉄道省に対し旅客列車の運行許可を求める申請を行い、1947年5月に1日6往復の旅客輸送を開始しました。



芦別駅a29
1926 (昭和元)年~1943(昭和18)年の芦別町内各駅における旅客・貨物数を示した表
芦別市(1994)『新芦別市史 第一巻』p.548より引用

芦別市役所が編纂した書籍『新芦別市史 第一巻』(1994年)に、戦前の下芦別駅の利用実態が書かれていますので下記に引用しましょう。
これを読むと芦別が炭鉱都市として発展していく過程が窺えます。
なお、文中に出てくる「表2」とは上に引用した「駅別旅客・貨物数」の表を指しており、奔茂尻(ぽんもしり)駅は1991年10月に廃止された滝里駅の旧名です

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 表2は下芦別、上芦別、野花南、奔茂尻の各駅における昭和元年から3年、10年から15年、17、18年の11年間分の乗降客・貨物数の推移を示したものである。まず、乗降客の推移からみていくことにしよう。
 4駅の中で乗降客数が多いのはやはり下芦別駅であった。元年から3年は合計で10万人台を示していると共に年々増加の傾向にあった。10年以降になるとさらに増加し、12年になると20万人を突破するようになる。14年以降の激増ぶりはすさまじく、15年には早くも約40万人に達し、17年は約57万人、18年には約67万人となっている。
 昭和元年の乗降客を基点にすると13年までの間に約2倍と微増の段階に留まっていたが、これ以降は激増を続け15年間に約3倍、そして18年に約5倍と飛躍的な増え方を示していることになる。これはひとえに芦別村の人口増加、石炭産業の勃興によるものであり、諸炭鉱の進出による人口の急増に支えられて乗降客数も、これまでにない空前の伸びを見せていたのである。

※※(中略)※※

 次に貨物数の推移を見ていくことにしよう。貨物数は昭和初期では上芦別駅の方が下芦別駅より多くなっている。下芦別駅では3年が最高で合計7万3,381㌧となっている。これに対して上芦別駅では2年が最高であるが、合計で20万55㌧に及び下芦別駅の約3倍となっていた。これは上芦別駅が三菱炭鉱の石炭発送駅であったことによるものである。ただし、上芦別駅は到着貨物も多く、下芦別駅とほぼ同数を示している。これも炭鉱資材の到着駅となっていたためであると共に、炭鉱従業員の大量の生活物資が荷降ろしされていたことによるものであろう。
芦別駅a28
 元年から3年の到着・発送貨物の内訳は表3のようになっていた。到着貨物はいずれもその他が圧倒的に多く、下芦別駅で7割から8割、上芦別駅では10割であった。細目は不明であるが日用雑貨、衣料、食料品、機械類など村内で自給できず村外からの供給を必要とするものか、その他の諸品であったろう。発送貨物もその他が下芦別駅で5割から6割、上芦別駅では10割であった。このその他というのは石炭であったろう。上芦別駅はもちろんそうであるが、下芦別駅も大部分を石炭が占めていただろう。次に多いのが林産で、下芦別駅では林産が3割から4割を占めている。野花南、奔茂尻駅では林産が最も多く6、7割を占めていた。
 その後の貨物数は三菱炭鉱の休山など石炭の不振により減少したであろうが、14年以降になると増加を示してくる。特に下芦別駅の場合が顕著である。ここは三井炭鉱を中心に諸炭鉱の石炭積み出し駅となり、17年からは約30万㌧に達し、かつて三菱炭鉱が隆盛期であった頃の数値をはるかに凌駕するほどになっている。
 下芦別駅は到着貨物も多くなってきている。これは市街地を抱えているためであり、昭和初期に比較すると下芦別駅が上芦別駅を抜いて商品積卸駅としての優位性を確立したといえる。このように村内の時期的な流通の状況のあり方もよくうかがうことができる。

《出典》
芦別市(1994)『新芦別市史 第一巻』p.p.547~550
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芦別駅 駅名標 三井芦別鉄道 私鉄
芦別駅a29-1

終戦後の1946年5月、下芦別駅は現駅名の「芦別」に改称されました。
これは空知郡芦別町(現:芦別市)が1939年に町内の字名を改称しており、下芦別についても芦別に改称していた事によります。
しかし町役場が字名を変更したにも拘らず、国鉄側は旧字名を駅名に冠したままだったので紛らわしく、鉄道利用に不便を生じてきました。
そのため町役場の請願により国鉄も重い腰を上げ、7年の歳月を経てようやく駅名に反映されました。

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 芦別町は昭和14年に字名を改称し下芦別は芦別に、上芦別は富岡、野花南は金剛・丸山、奔茂尻は滝里にへとそれぞれ変更になった。ところが旧字名によった駅名はそのままであった為に不便なことや誤解などが生じていた。特に奔茂尻駅は赤平の茂尻駅と紛らわしいこともあった。そのために下芦別駅を芦別駅に、上芦別駅を富岡駅に、奔茂尻駅を滝里駅に改称されることを18年11月に請願されたのである(「各種陳情書綴」芦別市蔵)。
 この請願を受けても3駅名の改称はすぐには実施とはならず、21年4月30日にいたり下芦別駅は芦別駅に、奔茂尻駅は滝里駅へと改称された。

《出典》
芦別市(1994)『新芦別市史 第一巻』p.552
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ロープウェイ 三井黄金坑索道 高根炭鉱索道 油谷炭鉱索道
芦別油谷鉱索道a01
芦別駅と各炭鉱を結んだ索道(ロープウェイ)は2本あった
芦別市(1994)『新芦別市史 第二巻』p.158より引用

駅名改称から2年後の1948年、約6km北方にあった三井芦別黄金坑から芦別駅まで石炭を輸送するべく索道が引かれました。
同年には北東5.6kmの油谷芦別炭鉱からも索道が引かれており、芦別駅には合わせて2本の運炭用ロープウェイが乗り入れました。

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 前述のように、各炭鉱は、軌道によって石炭を運搬していた。芦別の景観のひとつであった索道は、最盛期、4ヵ所にあった。
 三井黄金坑の索道は、昭和23年に使用が始まったもので、黄金坑からパンケ山を通り、国道38号線をまたいで、芦別駅までの6キロメートル、1日200㌧の輸送量だったが、昭和41年に廃止された。
 高根鉱の索道は、6.4キロメートルに達していたが、昭和35年10月1日に廃止され、トラック輸送に切り替えられた。
 油谷鉱索道は、昭和23年5月26日完成したもので、約6キロメートルに達していたが、昭和25年に、三菱専用鉄道を利用して搬出することになったため、廃止となった。
 明治鉱の索道は、昭和24年まで運転していたが、その後、軌道輸送に替った。
 木材輸送も森林鉄道や馬そりによる輸送からトラック輸送に替った。

《出典》
芦別市(1994)『新芦別市史 第二巻』p.p.157,158
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なお、油谷鉱索道の廃止と引き換えに敷設された三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道は、1964年9月に三菱芦別炭鉱の閉山と運命を共にしました。

JR北海道 国鉄 根室本線 芦別駅 木造駅舎 直営駅 社員配置駅 JR貨物 業務委託駅
芦別駅a27

1952年7月29日20時頃、芦別駅より至近で平岸方面の線路が爆破される事件が発生。
俗に言う「芦別事件」です。
警察は労働運動に参加していた油谷炭鉱の従業員、井尻正夫さんと地主照さんの2名を実行犯として逮捕しました。
両名を逮捕するに至ったのは、共犯者とされた別の同僚達から「火薬類を持ち出すのを見た」との目撃証言を得た事によります。
しかし実は何と警察が労働運動を瓦解しようとでっち上げた嘘の証言であり、井尻さんと地主さんは冤罪を着せられたのです。
この時の起訴内容は下記の通りです。

①ダイナマイト・雷管の不法所持にかかる火薬類取締法違反罪
②爆破に使用された発破器を坑内から盗み出したという窃盗罪
③数名と共謀のうえ、爆破事件を実行し通過列車に脱線転覆の危険を生じさせたという爆発物取締法違反罪および電汽車往来危険罪

第一審では②と③について無罪になったものの、①については有罪とし懲役1年とする判決が下りました。
これに対し井尻さん達は控訴したため、札幌高等裁判所で第二審を争う事になります。
そして組立てられた証拠関係において、人的な面からも、また、物的な面から数多の疑問に逢着する」と認められ、1963年12月20日に逆転無罪を勝ち取りました。
しかし井尻正夫さんは第二審の判決が出る直前、心労が祟り36歳で帰らぬ人となりました。
井尻さんの妻として共に裁判を戦った井尻光子さんはこの経験を元に、世の冤罪事件に警鐘を鳴らすべく書籍『飯場女のうた 芦別事件・怒りの26年』(1984年/学習の友社)を執筆されています。

芦別事件に終止符が打たれたのは、衝撃の逮捕から11年の歳月が流れた1960年代。
この頃はエネルギー革命を受けて日本全国の炭鉱が相次ぎ閉山され、芦別炭鉱も例外ではありませんでした。
1963年に明治炭鉱、1964年に三菱芦別炭鉱、1965年に油谷炭鉱、1967年に高根炭鉱と閉山が進み、三井芦別炭鉱の1ヶ所が残るのみとなりました。
当然、芦別駅から発送される石炭も、三井芦別鉄道からの連絡車扱貨物だけに。
三井芦別炭鉱も先細りを続け、1972年5月に三井芦別鉄道は旅客営業を廃止しました。

1985年3月、国鉄末期の合理化により芦別駅の荷物フロント業務が廃止。
貨物フロント業務についても連絡車扱貨物のみの取扱いに縮小されました。
1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道とJR貨物が継承。
1989年3月に三井芦別炭鉱が閉山し、これに伴い三井芦別鉄道も廃止されると連絡車扱貨物が消滅
JR貨物も芦別駅から引き払ったため、駅の種別は一般駅から旅客駅に変更されています。

1996年3月、駅業務執行体制の見直しが為され、日曜・祝日は駅員無配置となりました。
更に1998年には業務委託化され、子会社の㈱北海道ジェイ・アール・サービスネットが駅営業(出改札・旅客案内)を受託したため非運転駅となりました。

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 平成8(1996)年3月16日から、日曜・祝日を無人駅とした。さらに、10年には直営から業務委託駅になり、㈱ジェイ・アール・サービスネットから駅長が派遣されている。本町にある芦別を代表する駅で、平成25年現在、快速・狩勝を含む定期営業列車は全便停車し、夏季に運行される臨時特急フラノラベンダーエクスプレスも停車する。上下ホームの移動派、跨線橋を利用する。

《出典》
芦別市(2015)『新芦別市史 第三巻』p.311
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2016年3月、北海道ジェイ・アール・サービスネットの業務委託契約が解除されました。
これに伴い同年4月を以って簡易委託化され、芦別市役所の職員が出札業務を担当しています。



芦別駅a03

駅舎は1947年3月に落成した2代目で、屋根裏部屋があろうかという大きな平屋の木造建築です。
地元の請願により建設された駅舎ですが、戦時中の請願という事もあり建て替えに4年を待つ事となりました。

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 下芦別駅の駅勢は伸展の一途をたどっていたのであったが、これに反して駅舎は大正10年の改築にかかるもので老朽化が進み、且つ増大する乗降客をさばききれずに狭隘となっていた。また、構内には跨線橋がなく線路横断に危険もあった。そのために18年11月に後述の3駅名改称の件と共に駅舎の増改築のことが請願されたのであるが、請願書では当時の駅舎の状態につき以下のように述べられている(「各種陳情書綴」芦別市蔵)。

現駅舎屋ハ大正十年ノ改築ニ係リ今ヤ腐朽ヲ続ケ、且ツ隘ニシテ各列車毎ニ乗客ハ駅舎ニ溢レ、極寒時ハ勿論降雨時ト雖モ屋外ニ待合フノ外ナク、(略)又其乗降ニ際シテハ路線ヲ跨キ交通スル状況ニシテ危険甚シク新興躍進ノ芦別町ノ表玄関トシテハ真ニ遺憾トセラルル所ナリ。

ここで下芦別駅舎と構内施設は、「新興躍進ノ芦別町ノ表玄関トシテハ真ニ遺憾」と述べられているが、駅は町の“顔”であるためにそれ相応の建物を求めたのが請願の理由であったといえよう。芦別は16年4月に町制を施行し、「新興躍進」の自負に満ちていた。それだけにこのような請願も行われたのであろう。
 ただし、戦時下という事情により駅舎改築はしばらく実施されず、改築が実施され落成したのは戦後の22年3月20日であった。

《出典》
芦別市(1994)『新芦別市史 第一巻』p.551
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2018年10月~12月には改修工事が実施され、外壁にサイディング張りが為されています。


駅事務室 芦別駅
芦別駅a06

駅事務室勝手口の手前には花壇が整備されています。


時間が無いので今回はここまで。


※写真は全て2019年6月15日撮影


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最終更新日 : 2020-08-30

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