タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-05-31 (Sun) 18:43

札沼線石狩金沢駅 新篠津村農協の貨物をも扱った小駅

石狩金沢駅k03

石狩管内は石狩郡当別町字金沢にあった、JR北海道の石狩金沢(いしかりかなざわ)駅。
去る2020年5月7日を以って廃止された、札沼線末端区間(北海道医療大学~新十津川間)に属しています。
北海道医療大学駅との距離は3kmで、大学前の2車線道路を道なりに進めば徒歩でも簡単に辿り着けます。
駅の所在地は「伊達山」と呼ばれる標高101mの小山の麓で、仙台藩の支藩である岩出山領の領主・伊達邦直が1872年、家臣を引き連れて当別に入植した事から、伊達家の名を山に付けたのだそうです。
書籍『当別町史』(当別町史編さん委員会/1972年)によると地名の「金沢」は1886年、石川県金沢市出身の松村市三郎が入植した事により命名されたといいます。
開墾から16年後の1902年には68戸の住民が暮らす農村を形成したとの事で、駅前には加賀藩第11代藩主・前田治脩が建立した神社と同名の「金澤神社」があります。
周辺には稲作農家が多く、駅の北東には野生動物対策の電気柵やアニマルトラップ、ファームゲート等、農業用システムの開発・販売を手がけるファームエイジ㈱の本社があります。
他にも廃線沿いにノルトエッセン (nordessen)というパン屋があり、列車の車窓を眺めていると「パン」の2文字を示した赤い切り抜き看板が目立ちました。


JR北海道 国鉄 学園都市線地区駅 石狩金沢駅 旧駅舎 木造駅舎 札沼線北部
石狩金沢駅k18
石狩金沢駅の旧駅舎は平屋の木造建築だった
1950年以降は駅長を筆頭に4名の駅員が勤務していた
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.878

石狩金沢駅は1935年10月、札沼線石狩当別~浦臼間の延伸開業に伴い一般駅として開設されました。
札沼線は元々、樺戸炭田で採掘した石炭を輸送するために沿線自治体が敷設を求めてきた路線です。
1912年に「石狩川右岸鉄道速成同盟」を発足してから23年の歳月をかけ、念願かなって月形炭鉱の麓に線路が延びたのです。

しかし8年後の1943年7月、太平洋戦争の激化に伴い札沼線石狩当別~石狩沼田間が不要不急線に指定されてしまい、翌1944年7月に札沼線石狩当別~石狩月形間が路線撤収となりました。
この路線撤収に伴い石狩金沢駅も閉鎖されています。
撤去されたレールは兵器製造に転用される事となり、ソ連との最前線である樺太に運ばれています。
書籍『当別町史』にも不要不急線指定の経緯が記されていますので、以下に引用しましょう。

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 このようにして、先人の汗と血の結晶による、交通の便に慣れ、文化の進展をおう歌していたが、たまたま太平洋戦争たけなわとなり、1943年(昭和18年)7月30日札沼線は当別、沼田間の全面的営業休止となり、まず同年8月10日月形、石狩追分間の路線撤収となり、次いで1944年(昭和19年)7月21日石狩追分、沼田間及び月形、当別間が撤収され、札沼線は当別以北全部が撤去されたのである。撤収された資材は樺太国境へ軍用として運ばれたといわれる。撤収のあとは鉄道省営自動車が運行することになったが、冬期間は積雪にはばまれて運行休止の状態であった。1945年(昭和20年)終戦とともに関係住民の熱烈な要望による復元運動が起こり、当局のいれるところとなって、まず当別、浦臼間が、1946年(昭和21年)8月復元に着工し、同年12月10日営業を再開することとなった。しかし浦臼以北は予算及び資材の都合により、容易に実現には至らなかったが、ようやく1954年(昭和28年)4月着工となり同年11月3日浦臼、雨竜間が全通し、1956年(昭和31年)11月16日雨竜、沼田間も復元となり、ここに漸く札沼線全線が運行して現在に至っている。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.875
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石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 無人駅 札沼線末端区間
石狩金沢駅k04

1945年8月の終戦後、沿線住民の間で札沼線の復元を求める運動が起こり、1946年12月に石狩当別~浦臼間が営業を再開。
これと同時に石狩金沢駅も旅客・小荷物・貨物の営業を再開しました。
以降も札沼線では線路復元工事が続き、1956年11月の雨竜~石狩沼田間復元を以って全区間の営業再開が実現しましたが、その最中の1949年9月に国鉄当局は閑散線区の営業合理化を敢行。
1950年5月からは車掌が乗務の合間に転轍機の操作をするようになり、これに伴い直営駅でも操車要員が減らされ、石狩金沢駅は4名体制になりました。

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 前章で記述したが、北海道の国鉄は、公共企業体「日本国有鉄道」に移行したのち全国地方機構改革のテスト・ケースとして札幌・旭川・釧路の3鉄道局に分割された。これは責任体制を明確にし、収入増はもちろん経費節約をはかるという構想からのものだった。
 これと同じころ、閑散支線区経営改善案が発表された。ドッジ・ラインにより、採算改善の経営形態への転換がはかられたのだが、旅客乗降が千名以下、手小荷物発着が10個以下の駅が対象となった。これによって札沼線6駅、幌内線1駅、岩内線1駅、歌志内線1駅、胆振線8駅、富内線2駅が駅員無配置駅または業務委託駅となった。昭和24年9月のことだが、営業合理化の先駆け、といえる。
 翌25年5月1日からは以上の閑散線区内各駅の転轍器操作を列車乗務員が行うことになった。対象となった札沼線など14駅からは、これによって30名の職員が配置転換となったが、これもまた合理化の先駆けといえよう。

《出典》
札幌車掌区開区七十周年記念誌編集委員会(1983)『札幌車掌区開区七十周年記念誌 北の軌跡』(札幌車掌区北州会)p.54
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1958年10月、北海道に台風15号が襲来。
石狩金沢駅ではプラットホーム、駅本屋待合室、貨物上屋が倒壊する被害を被りました。


新篠津村農業協同組合 当別町農業協同組合 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨物列車
石狩金沢駅k07

国鉄時代の石狩金沢駅は地元で収穫された米の貨物取扱が多く、駅前には当別町農協の倉庫に加え、隣接する新篠津(しんしのつ)村の農協倉庫も併設されていました。
石狩郡新篠津村は1896年に篠津村(現:江別市篠津)から分離発足した村で、1900年9月に農協の前身に当たる新篠津農会が発足しました。
1920年10月に行なわれた日本初の国勢調査では、人口2,934人487世帯を数える規模になりましたが、発足以来全く鉄道が敷かれませんでした。

そこで新篠津農協は地元の農産物を遠方へ発送するために、村の最寄り駅である石狩金沢駅まで貨物を運んだ訳ですね。
事実、当別町字金沢は新篠津村の村境に接しており、石狩金沢駅からも目と鼻の先でした。
また、1968年からは新篠津村農協に納入される到着貨物(肥料など)も取り扱いました。
『当別町史』に石狩金沢駅での貨物取扱の話が載っていますので、以下に引用しましょう。

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 本駅は開設当初から複線であり、ホームも長く、閉塞機が設備されて列車の行き違いは自由に行なわれていた。
 本駅の近くに、泥炭を原料とする草炭製造工場開業し、その後ピートモス工場、ジーフイーポット製造工場と変わって操業し、それぞれ特異の出荷もあったが、何れも企業的には発展しなかった。近隣に穀倉を控えているので、米の輸送については新篠津農協倉庫、当別町農協倉庫からの貨車積みもあり、一時的には混雑を呈し、また1968年(昭和43年)から新篠津村農協の肥料など諸貨物の荷揚げに当駅を使用することとなったので、総体的には乗降客、貨物取り扱い数とも上昇の傾向が見られる。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.878
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なお、新篠津村の農家は米に加えて大根やトマト等の野菜を栽培しており、これらも駅前の農業倉庫に集約して貨物列車に積み込んでいただろう事は想像に難くありません。

これに伴い石狩金沢駅構内に、石狩当別保線支区の検査班である「石狩金沢検査班」が設置されました。


石狩金沢駅 駅名標 駅名看板 学園都市線 簡易委託化 無人駅
石狩金沢駅k16

1979年2月、「札沼線営業近代化」と銘打って桑園~新十津川間の貨物営業が廃止されました。
これに伴い当駅における貨物フロント業務が終了し、交換設備も廃止されて棒線駅に。
ついでに荷物フロント業務、旅客フロント業務(出改札)も廃止されて無人化されました。
石狩当別保線支区石狩金沢検査班も、この頃に廃止されたようです。

1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。
1991年3月には札沼線の新たな愛称として「学園都市線」の名が設定されましたが、正式な路線名は依然として札沼線のままです。

札沼線は北海道医療大学駅を境に沿線環境がガラリと変わる路線で、南部は宅地開発が進み通勤通学客が増加したのですが、北部は元から人口密度が低い上に過疎化が進んで生活利用客も僅少。
厳しい経営が続くJR北海道はバス転換を検討するようになり、2018年12月には国土交通大臣に対し札沼線北海道医療大学~新十津川間の鉄道事業廃止届を提出しました。
事業廃止日は2020年5月7日で、前日の2020年5月6日を運行最終日とする予定でした。
しかし中国・武漢を根源とする新型コロナウィルスが日本に上陸すると、ラストラン目当ての訪問者が殺到する事による沿線住民への感染拡大が懸念されるようになりました。

晩年は桑園駅を拠点駅とする学園都市線地区駅(担当区域:札沼線桑園~新十津川間)に属し、地区駅配下の管理駅である石狩当別駅が管理する完全無人駅でした。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 無人駅
石狩金沢駅k05

元々の駅舎は平屋の木造建築でしたが、1980年代後半に取り壊されてしまいました。
その代わりに列車掛乗務の廃止に伴い御役御免となった、ヨ3500形車掌車が駅舎に転用されています。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 無人駅
石狩金沢駅k06

貨車駅舎の正面には旧駅舎の基礎が残されていました。
基礎は比較的綺麗な姿を保っており、眺めていると往事の間取りを窺い知る事が出来ます。


石狩金沢駅 駅名標 駅名看板 国鉄
石狩金沢駅k09

駅舎の傍には古い駅名標が立っていました。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 待合室
石狩金沢駅k11
石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 待合室
石狩金沢駅k10

待合室の様子。
下見張りの壁板は塗装がボロボロに剥がれています。
一応、トイレがありますが封鎖されて入れませんでした。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 待合室
石狩金沢駅k12

待合室の壁には駅前の日帰り温泉施設「金の沢天然温泉 開拓ふくろふ乃湯」の利用案内が貼られていました。
開拓ふくろふ乃湯」は2009年7月開業という割と新しい施設なのですが、新型コロナウィルス流行による営業自粛が祟ったのか、残念ながら2020年5月を以って無期限休業となりました。



石狩金沢駅k13

他にも、夜の石狩金沢駅で撮影された3枚の写真が飾られていました。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 無人駅
石狩金沢駅k02

貨車駅舎は旧1番線の跡に置かれており、その手前にプラットホームに上がるスロープが設けられています。
駅舎の南面にはテールランプが残っていました。



石狩金沢駅k15

石狩金沢駅k14

1面1線の単式ホーム。
20m車4両分ほどの長さです。
貨物列車の発着があった頃、こちらのホームは島式ホームとして使われており、その反対側に単式ホーム1面を有していました。
2面3線の俗に言う「国鉄型配線」だったんですね。
駅舎は貨物積卸用だった旧1番線に接しており、各ホームとは構内踏切で繋がっていました。
単式ホームの跡地は雑草に覆われています。


石狩金沢駅 国鉄 ヨ3500形車掌車 緩急車 貨車駅舎 無人駅
石狩金沢駅k08

ホーム上から貨車駅舎をやや俯瞰気味に眺めた様子。
北面のテールランプも1個だけ残っていました。


キハ40系400番台 キハ40形400番台 苗穂運転所 ヨ3500形車掌車
石狩金沢駅k01

石狩当別に向けて出発するキハ40-401と貨車駅舎のツーショット。



石狩金沢駅k17

駅構内には古いケーブルハウスが建っていました。
札幌信号通信区はJR北海道が1990年3月に実施した組織改正に伴い、札幌信号通信所に改称されて現在も札幌近郊の信号設備・通信設備の保守を担当しています。


※写真は特記を除き2016年10月23日撮影
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最終更新日 : 2020-05-31

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