タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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2020-01-26 (Sun) 22:12

札沼線晩生内駅 新潟県人の「北越殖民社」と高知県人・岩村八作の農場

晩生内駅2

空知管内は樺戸郡浦臼町字晩生内にある、JR北海道の晩生内(おそきない)駅。
来る2020年5月に廃止される札沼線末端区間(北海道医療大学~新十津川間)に属します。
駅を囲むように稲作・畑作農家が暮らす集落が形成されており、線路を挟んで東側には水田が広がっています。
一方、西側には小規模ではありますが、「牡丹蕎麦」(ぼたんそば)という品種の蕎麦を栽培する畑があります。
牡丹蕎麦は元々、北海道で広く作付けされてきた品種。
他の品種に比べて甘味が強く香りが良いという特徴がありますが、枝が高くて折れやすい、収穫量が少ないなどの欠点があります。
1989年に「キタワセソバ」が開発されると道内各地で淘汰が進み、現在では北海道産の蕎麦の9割方がキタワセだと言います。
浦臼町は最早希少な存在となった牡丹蕎麦の産地であり、晩生内の農家も栽培を続けているとの事です。
他にもトマトを栽培するビニールハウスや、人参畑も見られます。


JR北海道 国鉄 札沼線 学園都市線 晩生内駅 木造駅舎
晩生内駅3

晩生内は元来、アイヌの人々がチャシ(城砦)を構えた土地でした。
当地に和人が入植したのは1892年の事。
元・越後長岡藩士の三島億二郎、柏崎出身の政治家・関矢孫左衛門らが、新潟県で結成した北海道開拓会社の「北越殖民社」が約150万坪の貸付を受けました。
これを機に新潟県から15戸の移住者が集まり、集落の発足に至ったと言います。
北越殖民社晩生内農場の農場主は関矢孫左衛門の子息、関矢才五郎が務めました。
後に高知県宿毛出身の岩村八作が壮瞥から移住し、晩生内に45万坪の岩村農場を開設。
1896年9月には関矢才五郎、岩村八作が中心となって、集落西側の高台に晩生内神社を建立しています。

晩生内に鉄道が敷かれたのは1935年11月。
国鉄札沼線石狩当別~浦臼間の延伸開業に伴い、晩生内駅は一般駅として開設されました。
折りしもこの頃、北越殖民社晩生内農場の農地が小作人に解放されつつあり、農村の新時代が到来すると共に、南線と北線に分けて敷設を進めた札沼線も念願の全通を見たのでした。
しかし8年後の1943年8月、太平洋戦争の激化に伴い札沼線石狩月形~石狩沼田間が不要不急線に指定されてしまい、晩生内駅も営業休止に追いやられてしまいました。
撤去されたレールは兵器製造に転用される事となり、ソ連との最前線である樺太に運ばれています。
札沼線は1944年7月までに石狩当別以北の撤収が進められ、書籍『当別町史』にも不要不急線指定の経緯が記されています。

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 このようにして、先人の汗と血の結晶による、交通の便に慣れ、文化の進展をおう歌していたが、たまたま太平洋戦争たけなわとなり、1943年(昭和18年)7月30日札沼線は当別、沼田間の全面的営業休止となり、まず同年8月10日月形、石狩追分間の路線撤収となり、次いで1944年(昭和19年)7月21日石狩追分、沼田間及び月形、当別間が撤収され、札沼線は当別以北全部が撤去されたのである。撤収された資材は樺太国境へ軍用として運ばれたといわれる。撤収のあとは鉄道省営自動車が運行することになったが、冬期間は積雪にはばまれて運行休止の状態であった。1945年(昭和20年)終戦とともに関係住民の熱烈な要望による復元運動が起こり、当局のいれるところとなって、まず当別、浦臼間が、1946年(昭和21年)8月復元に着工し、同年12月10日営業を再開することとなった。しかし浦臼以北は予算及び資材の都合により、容易に実現には至らなかったが、ようやく1954年(昭和28年)4月着工となり同年11月3日浦臼、雨竜間が全通し、1956年(昭和31年)11月16日雨竜、沼田間も復元となり、ここに漸く札沼線全線が運行して現在に至っている。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.875
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越後線 宿毛線 JR北海道 国鉄 学園都市線 晩生内駅 駅名看板 駅名標
晩生内駅6

1945年8月の終戦後、沿線住民の間で札沼線の復元を求める運動が起こり、1946年12月に石狩当別~浦臼間が営業を再開。
これと同時に晩生内駅も旅客・小荷物・貨物の営業を再開しました。
以降も札沼線では線路復元工事が続き、1956年11月の雨竜~石狩沼田間復元を以って全区間の営業再開が実現しましたが、その最中の1949年9月に国鉄当局は閑散線区の営業合理化を敢行。
札沼線でも6駅が無人化・業務委託化の対象となり、1950年5月からは車掌が乗務の合間に転轍機の操作をするようになりました。

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 前章で記述したが、北海道の国鉄は、公共企業体「日本国有鉄道」に移行したのち全国地方機構改革のテスト・ケースとして札幌・旭川・釧路の3鉄道局に分割された。これは責任体制を明確にし、収入増はもちろん経費節約をはかるという構想からのものだった。
 これと同じころ、閑散支線区経営改善案が発表された。ドッジ・ラインにより、採算改善の経営形態への転換がはかられたのだが、旅客乗降が千名以下、手小荷物発着が10個以下の駅が対象となった。これによって札沼線6駅、幌内線1駅、岩内線1駅、歌志内線1駅、胆振線8駅、富内線2駅が駅員無配置駅または業務委託駅となった。昭和24年9月のことだが、営業合理化の先駆け、といえる。
 翌25年5月1日からは以上の閑散線区内各駅の転轍器操作を列車乗務員が行うことになった。対象となった札沼線など14駅からは、これによって30名の職員が配置転換となったが、これもまた合理化の先駆けといえよう。

《出典》
札幌車掌区開区七十周年記念誌編集委員会(1983)『札幌車掌区開区七十周年記念誌 北の軌跡』(札幌車掌区北州会)p.54
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ローカル線の合理化が図られる中、1961年6月には晩生内駅も業務委託化されます。
当時はまだ日交観(日本交通観光社)北海道支社が鉄道駅業務の受託を開始する前で、地元企業が受託したものと思われます。
晩生内駅は交換駅でしたが、業務委託駅の駅員は運転取扱業務が一切出来ない決まりになっているため、この時を以って当駅におけるタブレット閉塞の取扱いが終了。
使用する番線は原則として2番線のみとなりましたが、貨物の積卸を行う時だけ1番線を使用し、車掌が線路に降りて貨物列車の誘導をしていたそうです。
貨物取扱量も極めて少なかったから、こんな省力化が出来たんだろうな・・・と思いますね。


晩生内駅 木造駅舎 改札口 ラッチ 学園都市線地区駅
晩生内駅14

1967年4月、駅フロント業務が日交観北海道支社に移管されました。
日交観北海道支社はJR北海道の子会社、北海道ジェイ・アール・サービスネットの前身に当たります。
同時に同じ札沼線内の本中小屋駅、札比内駅、上徳富駅、碧水駅も日交観の担当となっています。
1979年2月には桑園~新十津川間の貨物営業廃止に伴い、当駅における貨物フロント業務が終了。
同時に小荷物フロント業務・改札業務も廃止されて日交観が撤退し、出札業務のみ地域住民に委託する簡易委託駅となりました。


晩生内駅 駅名標 駅名看板 学園都市線地区駅 JR北海道
晩生内駅5

1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。
1991年3月には札沼線の新たな愛称として「学園都市線」の名が設定されましたが、正式な路線名は依然として札沼線のままです。
2004年6~8月、札沼線石狩月形~晩生内間でDMV(デュアル・モード・ビークル)の走行試験が実施されました。
石狩月形駅構内南側、晩生内駅構内北側にDMVの軌陸切換設備(モードインターチェンジ)が設置されましたが、どちらも走行試験の終了後に撤去されています。
2007年8月には簡易委託窓口が廃止され、完全無人駅となりました。
現在は桑園駅を拠点駅とする学園都市線地区駅(担当区域:札沼線桑園~新十津川間)に属し、地区駅配下の管理駅である石狩当別駅が管轄しています。


JR北海道 国鉄 晩生内駅 木造駅舎
晩生内駅1

駅舎は小さな木造モルタル造りの平屋。
駅事務室側の妻面を見ると窓が全く無く、どうやら減築して小さくなった建物のようです。
屋根には水色のトタン屋根を葺いており、レンガ敷きのような模様を描いています。


JR北海道 国鉄 晩生内駅 木造駅舎
晩生内駅4

駅舎の傍には大きな黒松が聳えます。
晩生内駅の開設と共に植樹されたものでしょうね。



晩生内駅11

黒松の下にはトイレが建っています。


晩生内駅 木造駅舎 待合室 国鉄 日本交通観光社 日交観北海道
晩生内駅7
晩生内駅 木造駅舎 待合室 国鉄 日本交通観光社 日交観北海道
晩生内駅9

待合室の様子。
壁はベニヤ板の羽目張りです。
左右に4人掛けベンチと木製ベンチが置かれており、何れも地元住民が用意したと思しき座布団が敷かれています。
訪問当時は掃除が行き届いており、造花も飾られていました。


晩生内駅 木造駅舎 待合室 国鉄 日本交通観光社 出札窓口 チッキ台
晩生内駅8

小荷物窓口と出札窓口の様子。
どちらも板で塞がれています。
小荷物窓口は窓枠が完全に撤去されており、チッキ台には吉川英治の歴史小説『新・平家物語』(講談社)1~6巻が置かれていました。
出札窓口は窓枠・カウンター共に健在で、これで板が無ければ完璧なのに・・・と悔やまれました。
出札窓口を塞ぐ板には利用者向けの問い合わせ窓口として、石狩月形駅の電話番号を明記した札が付いています。


晩生内駅 木造駅舎 改札口 学園都市線地区駅 
晩生内駅10

改札口の様子。
引き戸は両開き構造ですが右側を締め切っています。


晩生内駅 改札口 ラッチ 木造駅舎
晩生内駅12

ホーム側から改札口を眺めた様子。
国鉄時代のローカル線の駅舎に多く見られた、簡易的なパイプのラッチが残っています。
有人駅だった頃は改札担当の駅員が中間に立って、ホームに出る客の切符に入鋏したり、下車した客から集札していた訳です。


JR北海道 国鉄 晩生内駅 木造駅舎
晩生内駅16
JR北海道 国鉄 晩生内駅 木造駅舎
晩生内駅15

ホーム側から駅舎を眺めた様子。
屋根が庇と一体化しており、軒下に青く塗られた古いベンチが置かれています。


晩生内駅 単式ホーム 島式ホーム 交換駅 交換設備
晩生内駅19
晩生内駅 単式ホーム 島式ホーム 交換駅 交換設備
晩生内駅18

1面1線の単式ホーム。
幅員が狭いですね。
全長は20m車2~3両分程度で、床面はほとんど砂利敷きです。
先述したとおり以前は交換設備を有しており、このホームも1面2線の島式ホームとして機能していました。
元々は駅舎側が1番線で、現存する外側の線路は2番線でした。



晩生内駅13

駅舎とホームの間にはバラストが残っており、かつての1番線の存在を偲べるようになっています。
1番線が撤去されたのは1979年2月の札沼線貨物営業廃止以降だったそうです。
無人化された駅の交換設備は分割民営化までに軒並み撤去され、石狩月形~新十津川間のタブレット閉塞についても新十津川駅が棒線駅となった事から、閉塞器無しで運用できるスタフ閉塞に切り替わりました。



晩生内駅17

駅舎とホームを結ぶ階段。
左右に緑色の柵が付き、青い滑り止めシートが敷かれています。
階段の出っ張り具合を見ると1番線に支障するので、交換設備の廃止後に新設されたものでしょう。
となると、構内踏切の構造が如何なるものだったのか気になりますね。
昔はホームの新十津川方が坂になっていて、そこから踏切が延びていたりしたんでしょうか?



晩生内駅20

ホームに停車したキハ40系1700番台。


※写真は全て2016年10月23日撮影
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最終更新日 : 2020-01-27

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