タタールのくにびき -蝦夷前鉄道趣味日誌-

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Top Page › 北海道 › 札沼線石狩当別駅[1] 岩出山伊達家ゆかりの町とJR最後の「駅乗務員」
2020-01-18 (Sat) 17:30

札沼線石狩当別駅[1] 岩出山伊達家ゆかりの町とJR最後の「駅乗務員」

石狩当別駅2

石狩管内は石狩郡当別町錦町にある、JR北海道の石狩当別(いしかりとうべつ)駅。
当別町は札幌市に隣接する自治体で、高度経済成長期以降にベッドタウン化が進んだ町です。
同町内の石狩太美駅周辺が新興住宅地として注目されがちですが、当別市街から札幌方面へ通勤・通学する住民も多く見られます。
駅南口から延びる当別大通を軸に商店街が形成されており、個人商店・飲食店が多く軒を連ねるほか、JR北いしかり(北石狩農業協同組合)や当別町商工会が本所を構えています。
駅北口の方は閑静な住宅街が広がり、北東には当別町役場と北海道当別高校があります。

石狩当別駅から南東に離れた国道275号線沿いには「かばと製麺所」といううどん屋があり、本場・香川県高松市で修業を積んだ店主(当別町出身)が切り盛りする讃岐うどんの人気店です。
しかし豪雪に見舞われる冬場は営業休止となり、その代わりに札幌市内の北大病院前で「まんでがん外伝」といううどん屋を営業しています。
「まんでがん」とは「全部」を意味する讃岐弁で、こちらは冬しか営業しませんがやはり店の外に行列が出来ます。
「かばと製麺所」の方は確か6年ほど前にHTBのTV番組『おにぎりあたためますか』で取材を受けており、その時にご主人が「夏は厨房がかなり蒸し暑く、パートのおばさん達に労働組合を作られそうになった」と仰られていたのが印象に残っていますw

当別町の開祖は仙台藩の支藩、岩出山領の領主・伊達邦直です。
伊達邦直は戊辰戦争において佐幕派の奥羽越列藩同盟に参加し、山形で官軍と戦い勝利を収めましたが、その後は味方の多くが官軍に寝返った事から敗北を喫しました。
制裁として14,640石の禄高は僅か60石にまで減らされ、730戸の家臣を抱える岩出山伊達家は困窮に瀕します。
転機が訪れたのは1869年8月、邦直の実弟にして仙台藩亘理領主である伊達邦成が、明治政府より有珠郡の支配を命じられて大勢の家臣と共に蝦夷地へと渡りました。
邦成は先住民であるアイヌの人々に敬意を払って、アイヌの住まない未開の原野を一から開拓し伊達紋別の町を築きました。
兄の邦直も弟に続こうと蝦夷地移住を決心し、明治政府との交渉や現地調査に苦心した末、1871年に石狩平野の当別で永住の地を得る事となりました。
そして翌1872年に岩出山領を挙げての移住を為し、大木が深く根を張る森林を伐採して畑を起こし、当別町の礎を築くに至ったのです。
そして2020年、当別町は入植150周年の節目を迎え、『当別町150年史』の編纂も着々と進められています。


江当軌道 軽便鉄道 国鉄 JR北海道 学園都市線地区駅 札沼線
石狩当別駅(江当軌道)
江別と当別を結んだ私鉄・江当軌道の当別停車場
江当軌道は軌間762mmの特殊狭軌鉄道で、開業当初から蒸気機関車を保有していた
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.869より引用

さて、前置きが長くなりましたが石狩当別駅の歩みを見ていきましょう。
開拓期の石狩平野における交通手段は石狩川水系を介した渡船が主力で、当別においても各集落に渡船場が設けられたと伝わっています。
やがて開発が進み当別~江別間の交通量が増大すると鉄道敷設の気運が高まり、計画が練られるも両地域を遮る石狩川に橋を架ける費用が準備できず、なかなか進展を見ませんでした。
一方、札幌では私鉄の札幌軌道が1917年9月、当別の対岸にある宿場町の茨戸(ばらと)で路線延伸を行い、茨戸渡船場の傍に川端駅を設けて水上交通との連絡を確保しました。
札幌軌道は更に同年中、茨戸~当別間の軌道延長を計画し許可申請にこぎつけました。
しかし同時期に坂野小六ら8名が江別~当別間の軌道敷設を出願し、共願となったため1920年に2件とも却下されました。

その翌年、1921年に当別・江別・札幌の有志が共同で軌道敷設を計画。
1926年1月に当別村で江当(こうとう)軌道の創立総会が開催され、本社を当別に置きました。
江当軌道は当別~江別間11.3km、軌間762mm(いわゆるナローゲージ)の鉄道で、当別市街に設けた当別停車場を起点とし、江別町字篠津の石狩大橋の袂に設けた江別停車場を終点とする私鉄です。
1927年8月の開業を以って当別に念願の列車が走り出し、当別で産出した大量の農産物・林産物・砂利を迅速に各地へ輸送できる事となりました。
ただし江当軌道の江別停車場と、国鉄函館本線の江別駅とでは大きく離れているため、国鉄連絡貨物は一旦自動車に積み替えての輸送を強いられました。
旅客も江別大橋の手前で路線バスに乗り換え、江別市街まで移動したと言います。
当別停車場も一応は市街地(現:当別栄町)に位置するものの、当別川の手前で線路が途切れており、役場からも遠ざかっていたため利便性はいまひとつだったようです。
先述した「かばと製麺所」は冬場に営業休止となりますが、この江当軌道も通年運行ではなく、毎年春から秋にかけての運行に留めていました。
また、鉄道事業の他に自動車事業も手がけており、路線バス・貸切バス・貨物自動車を運行していました。
『当別町史』にも江当軌道の概要が記されていますので、下記に引用しましょう。

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 事業の大要は起点を当別市街(現在の一町内宮永建設の裏手当別川岸に本社事務所その他付属建物を設置した)として、終点は江別町石狩大橋の付近であった。路線は当別市街を発して、対雁通の東方250間(約450m)の所を通り、蕨岱に出て殖民区画29線から30線に移り、真っすぐに南下して三原を経て江別町石狩大橋付近へ達する延長11.2kmであり、終点から国鉄江別駅までは自動車で連絡する計画であった。軌条は35ポンドを使用し、起点及び終点に停車場並びに倉庫を設け、その間の蕨岱、6号線及び三原に仮停車場を置いた。動力は蒸気機関車71両、5t1両、ガソリン機関車31両、客車は26人乗3両、貨車は2t積32両を備えた。この工事は大正15年4月起工し昭和2年8月しゅん工、建設費総額15万6千円を要し、同年8月18日から営業を開始したのである。
 この軌道は例年融雪期から降雪期までの運行であった。当初は1日4往復、後に国鉄ダイヤとの連絡を計り6往復となった。旅客運賃は当別停車場、江別停車場間45銭(当別から蕨岱まで15銭6号、三原まで30銭)江別停車場から国鉄江別駅までの自動車賃は15銭であった。
 旅客輸送のほかに当別川から採取の砂利、当別川により奥地から流送した木材の輸送も行っていた。
 営業開始当初、当別停車場の貨物配達には籬勝三郎・久保為吉両人が荷馬車で専属に当っていたが、時代の進展に伴い1930年(昭和5年)トラックを購入して貨物の集配、あるいは近隣地域への貨物輸送を行う等、機械力による効率化を計り、また昭和2年5月軌道運行に先だち、弁華別小学校前、当別停車場、中小屋温泉を結ぶ路線の自動車による旅客輸送も行った。
 この自動車輸送が当別町のバス運行の始めである。当初はフォード型6人乗り自動車で1日1往復の運行で、料金は弁華別、停車場間30銭、停車場、中小屋間30銭、中小屋、月形間30銭に改訂したが、さらに1933年(昭和8年)4月シボレー型10人乗バスを購入して運行に当った。定期運行の時間外に、貸切運行もする等サービスを遺憾なく発揮していた。しかし上述の運行も降雪に災いされ、現在のような道路除雪など重いも及ばず、冬将軍の猛威のままとなり、文化の恩恵に浴することのできなかったことを恨みとする。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.p.870~871
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国鉄 札沼線 石狩当別駅 旧駅舎 木造駅舎 JR北海道 学園都市線地区駅 貨物列車
石狩当別駅旧駅舎
札沼線石狩当別駅の旧駅舎
トタン屋根を葺いた木造下見張りの平屋だった
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.876より引用

しかし実を言うと江当軌道の設立に至った背景には、石狩川右岸の7町村(石狩町・当別村・月形村・浦臼村・新十津川村・雨竜村・北竜村)が1912年に結成した「石狩川右岸鉄道速成同盟」の活動があります。
この同盟は政府に対し、樺戸地方で採掘した石炭の輸送を主な使命とする国鉄線の敷設を請願してきましたが、「函館本線と併行する」として断られ続けてきたのです。
1919年には各町村長をはじめ地元有志が大挙して上京し、政府や関係当局に陳情しましたが、これも拒否されてしまったので私鉄敷設の気運が一層高まったのだと言います。
ところが同同盟は諦めず、1921年に請願を再開。
粘り強い交渉が功を奏し、1923年12月の第48回帝国議会でようやく札沼線の敷設が決定しました。
皮肉な事に江当軌道は開業準備の段階で、既に廃止の秒読みが始まっていたのです。

札沼線は南線と北線に分けて敷設工事を進め、完成した区間から順次開業する事となりました。
1934年11月に札沼南線桑園~石狩当別間が開業し、石狩当別駅は一般駅として開設されました。
更に翌1935年には石狩当別~浦臼間が延伸開業し、南北両線が繋がった事から札沼線の完成を見ました。
念願の国鉄線全通と引き換えに、江当軌道は冬季運休のまま1936年5月に鉄道事業を廃止。
自動車事業も継続する事なく、会社は短命に終わりました。
同時に政府は昭和11年法律第19号「江当軌道株式会社所属軌道廃止に対する補償のため、公債発行に関する法律」を施行し、会社の清算に当たって損失補償を行いました。

鳴り物入りで開業した札沼線ですが、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると状況が一変。
路線の大半が不要不急線に指定されてしまい、兵器製造に転用するべくレールが剥がされてしまいました。
1944年7月までには石狩当別駅以北が全て営業休止に陥り、戦時下の運転区間は桑園~石狩当別間のみとなりました。

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 このようにして、先人の汗と血の結晶による、交通の便に慣れ、文化の進展をおう歌していたが、たまたま太平洋戦争たけなわとなり、1943年(昭和18年)7月30日札沼線は当別、沼田間の全面的営業休止となり、まず同年8月10日月形、石狩追分間の路線撤収となり、次いで1944年(昭和19年)7月21日石狩追分、沼田間及び月形、当別間が撤収され、札沼線は当別以北全部が撤去されたのである。撤収された資材は樺太国境へ軍用として運ばれたといわれる。撤収のあとは鉄道省営自動車が運行することになったが、冬期間は積雪にはばまれて運行休止の状態であった。1945年(昭和20年)終戦とともに関係住民の熱烈な要望による復元運動が起こり、当局のいれるところとなって、まず当別、浦臼間が、1946年(昭和21年)8月復元に着工し、同年12月10日営業を再開することとなった。しかし浦臼以北は予算及び資材の都合により、容易に実現には至らなかったが、ようやく1954年(昭和28年)4月着工となり同年11月3日浦臼、雨竜間が全通し、1956年(昭和31年)11月16日雨竜、沼田間も復元となり、ここに漸く札沼線全線が運行して現在に至っている。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.875
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1946年12月、札沼線石狩当別~浦臼間が営業再開となりました。
1956年11月までに石狩沼田駅までの全区間が復旧しています。


当別町営軌道 簡易軌道 殖民軌道 貨物列車 公営鉄道
石狩当別駅(当別町営軌道)
道央圏としては珍しい殖民軌道(簡易軌道)だった当別町営軌道
小柄な内燃機関車(ガソリン及びディーゼル)が木材輸送列車を牽引し、石狩当別駅北側まで乗り入れていた
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.888より引用

国鉄が札沼線の全線復旧に向けて線路工事を進める中、1946年には当別町役場が市街地と町内北部の青山奥地帯を結ぶ殖民軌道(簡易軌道)の敷設を計画。
青山奥地帯は長年に渡り交通機関に恵まれず住民が不便な思いをしたと言い、しかも太平洋戦争後は同地を緊急開拓地として多くの入植者を受け入れる事になったため、生活物資や特産物などを迅速に輸送する手段の整備が求められていました。
町役場は「当別青山開拓殖民軌道請願書」を草案し、北海道庁、北海道議会に嘆願。
更には政府にまで請願を行い、国費を投じて当別~青山四番川間48kmの軌道敷設を実施する事が決まりました。
しかし現地での測量で敷地確保に困難がある事が判明し、なおかつ政府との予算の交渉にも悩まされ、最終的に当初計画よりも短い当別~大袋間33kmに変更しています。
1949年6月に一次開業として当別~青山中央間が営業を開始し、延伸開業に向けて工事が進められるも相次ぐ大洪水に苦しめられます。

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 1947年(昭和22年)いよいよ工事の第1段階として、道庁開拓建設課の手により6月測量に入ったが、敷設予定線の敷地確保に非常な困難が生じ、特別委員会を中心にいくたびも協議交渉を重ね、多くの曲折を経てようやく敷地を得て工事に入ったが、中央では北海道の開拓地の状況を充分に察知することが出来ず、さらに軌道の持つ使命にも関心が薄く、そのために予算の配分は極度に削減され、工事は遅延し、前途の楽観は許されなくなった。この事情を察知して情況の好転を計ろうと近藤町長をはじめ各関係者は陳情嘆願につとめた。道庁でも「是非完成したいので政府との折衝に応援を頼む」とのことで、町長はただちに上京して農林省、大蔵省、経済安定本部等に出向き、当別線の事情を詳しく説明して予算配分の円滑を要請した。
 このようにして情況陳情すること再三、再四、中央でもよく事情をは握し予算の配分も順調に行われるようになり、工事も円滑に行われた。
 軌道敷設計画については
   昭和22年度 当別~青山橋間   10km
   昭和23年度 青山橋~中山の沢間 6km
   昭和24年度 中山の沢~一番川間 8km
   昭和25年度 一番川~大袋間   9km
であり、1950年(昭和25年)度全線33kmが完成する予定であった。青山橋までの工事が予定通りに完成したので1949年(昭和24年)6月1日から簡易軌道運行組合により営業を開始した。1950年(昭和25年)2月末融雪期の大洪水のため青山共有地、中山の沢間の当別川に架設の7号線が流失し、その復旧を完成して7月11日青山中央まで運行したが、間もなく7月31日、8月1日の豪雨による大洪水のため、青山中央までの区間の橋りょう流失5、線路流失及び路床欠壊5,000mに上る大災害に遭遇し、大きなつまづきを生じた。このため近藤運行組合長は道開拓建設課長と共に上京し、政府各省と交渉を続け国費による災害復旧の迅速な施行を要請した。政府は当初、運行組合の6割負担を固執していたが、遂には当方の要請に応じ、1952年(昭和27年)全線が完成した。

《出典》
当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.p.887~888
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全通までの最中、1950年6月には石狩当別駅にて国鉄線との旅客連絡を開始しています。
当初は簡易軌道運行組合が運行および施設管理を担っていましたが、経営が貧窮した事から1953年10月に管理を巡る協議に入りました。
そして同月中に農林省と当別町役場が協定を結び、簡易軌道の財産管理について当別町役場に委託する事となりました。
しかし冬期間の運休は一向に解消されず、そもそもが当別川に沿って敷かれた軌道である事から融雪災害・洪水災害が起こり続け、その度に災害復旧の費用が嵩んだために経営が傾きました。
特に甚大な損失を被ったのは1954年9月の洞爺丸台風。
政府が復旧に必要な費用を迅速に手配できず、町費負担も厳しい事から町役場は1956年3月に農林省との協定を破棄し、開業から僅か7年の歴史に終止符を打ちました。


JR北海道 国鉄 札沼線 駅舎 運輸営業所 石狩当別駅運輸 石狩当別駅工務
石狩当別駅3

国鉄に話を戻すと、石狩当別駅は戦時中から当別川で採取された砂利の貨物輸送拠点として機能しました。
隣接する札幌砂利工業㈱の専用線70.3mが乗り入れ、当別砂利共販㈲も貨車輸送をしていたほどです。
全体の貨物取扱量も札沼線随一だったと言われていますが、高度経済成長期にモータリゼーションが起こると砂利輸送もトラックに転換され、「札幌市のベッドタウンとしての旅客専用駅の観さえある状態となった」{当別町史編さん委員会(1972)『当別町史』(北海道石狩郡当別町)p.876}そうです。

1965年12月、当駅発着の列車取扱数が多いため、駅構内の信号制御を手動式(機械テコを用いる制御)から連動式(連動装置を用いる制御)に変更。
1979年2月には貨物フロントが廃止されました。
1983年3月、札沼線桑園~石狩月形間のCTC化に伴い、当駅におけるタブレット閉塞の取扱いが終了。
1984年2月には手小荷物フロントが廃止されました。


JR北海道 石狩当別駅 札沼線 学園都市線 運輸営業所 職制 運転士 主任運転士
石狩当別駅

1987年4月の分割民営化に伴いJR北海道が継承。
1991年3月には札沼線の新たな愛称として「学園都市線」の名が設定されましたが、正式な路線名は依然として札沼線のままです。
また、同年11月には石狩当別駅を札沼線末端区間(石狩当別~新十津川間)の管理拠点として位置づけ、新たな駅業務部門として駅運輸(動力車乗務員)と駅工務(保線)を開設しました。
これは1990年7月より開設が進んでいた「運輸営業所」を参考に、一定線区に係る各種業務を1箇所の主要駅に統合したものです。

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2 )要員配置
 (1) 3年度は、中期経営計画の実質的な初年度であり、「足固めの年」として種々の施策を着実に実施した。
 鉄道事業部門では、地域に密着した機能的な組織として、すでに開設されている日高線運輸営業所、花咲線運輸営業所に続き、3年11月に「宗谷北線運輸営業所」を開設、さらに新しい効率的な業務運営体制として、営業・運輸・工務の各系統を統合した「石狩当別駅」を設置した。そのほか、業務の簡素化及び効率化を図るため、ワンマン運転の拡大、車掌基地の統廃合、駅業務執行体制の見直しなどを実施した。

《出典》
交通協力会(1993)『交通年鑑 平成5年度版』p.255
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そもそも運輸営業所は何かと言うと、JR北海道が1990年7月の日高線運輸営業所を皮切りに、花咲線運輸営業所宗谷北線運輸営業所と設置を進めた業務統合機関の事です。
これらの運輸営業所は担当線区の駅や旅行センターを配下に置き、運輸部門(乗務・検修)と工務部門(保線・電気)を配下の駅に統合しました。
所長が本社・支社の部長に相当する点も他の現業機関とは異なり(大抵は課長または主席程度)、管理部門も合わせて運輸営業所に置いて担当線区に係る列車ダイヤ設定や予算執行などの権限を持つ事により、地域密着型の路線経営を推進する「ミニ支社」として位置づけられました。
係職の職制についても分割民営化当初にJR各社が共通で定めた、「主任」、「指導係」、「係」の3段階を原則としつつ、「工務社員が営業もこなすなど、社員の業務もある程度融合して、効率化を図っていく」{JR北海道20年史編纂委員会(2007)『JR北海道20年のあゆみ』p.23(北海道旅客鉄道)}ために所属社員の職名を段階ごとに「業務主任」、「業務指導係」、「業務係」へと集約しました。
つまり出札窓口で切符を売る営業職も、運転取扱業務に従事する輸送職も、保線を担う施設職も、階級が同じなら皆同一の職名になる訳です。
石狩当別駅は既に運輸営業所で実践されていた手法を、より権限の小さな管理駅に応用したんですね。
石狩当別駅に続き1992年7月には岩見沢運転所追分派出所(旧:追分機関区)を追分駅に統合し、コスト削減を図っています。

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2 )要員配置
 (1) 4年度は、中期経営計画の中間であり、過去2年間の成果を踏まえ、中期経営計画の目標達成のため、各事業分野で積極的に諸施策を推進させた。
 鉄道事業部門は、新しい効率的な業務体制として、営業・運輸・工務を統合した「石狩当別駅」を設置したのに引き続き、地方線区での輸送コストの削減を図るため運転所派出所と駅を統合した「追分駅」を設置した。さらに、「ワンマン運転の拡大」及び「駅業務執行体制の見直し」など効率化諸施策を推進するとともに、「乗務員基地の統廃合」及び線路・電気設備の効率的な保守業務体制の確立を図るため「工務所(保線と電気の統合)」の設置拡大など現業機関の統廃合にも積極的に取り組み、鉄道事業部門のスリム化を図った。

《出典》
交通協力会(1994)『交通年鑑 平成6年度版』p.243
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なお、『交通年鑑 平成7年度版』(1995年/交通協力会)p.226に掲載されているJR北海道の「主要現業機関別社員数」を見ると、1994年10月1日時点で現業社員の合計が7,480人であり、そのうち運輸営業所の在籍人数は400人。
その下の注釈には「運輸営業所には追分、石狩当別駅を含む」とあり、JR北海道がこれら2駅を単なる直営駅(社員配置駅)ではなく、運輸営業所に準じた現業機関として位置づけていた事が分かります。


JR北海道 国鉄 キハ40系400番台 キハ40形400番台 札沼線
石狩当別駅4

1996年3月、札沼線石狩当別~新十津川間がワンマン化され、石狩当別駅の運転士は運賃収受とドア扱い、車内放送(自動放送装置の操作を含む)を担当するようになりました。
2012年6月には札沼線桑園~北海道医療大学間が電化(交流20,000V)されており、直前の5月には石狩当別駅3番線で新型通勤電車733系の展示会が開催されています。
同時期には厚岸駅工務、根室駅工務も保線所の管轄に移行しています。
この時に駅員の職制も他の駅と同様になり、営業職(営業主任・営業指導係・営業係)と輸送職(輸送主任・輸送指導係・輸送係)の各職名が復活したそうです。

札幌近郊の駅としては比較的最近まで有人改札口が使われていましたが、2017年3月に自動改札機が導入されています。
現在は桑園駅を拠点駅とする学園都市線地区駅(担当区域:札沼線桑園~新十津川間)に属する管理駅で、石狩太美~新十津川間の各駅を管轄しています。
管轄エリアの大半(北海道医療大学~新十津川間)は札沼線の末端区間に位置づけられており、当該区間は来る2020年5月を以って廃止されます。
石狩当別駅の業務体制も大いに縮小する事でしょう。


JR北海道 札沼線 石狩当別駅運輸 石狩当別駅乗務員 運輸営業所
石狩当別駅乗務員

中でも石狩当別駅運輸(動力車乗務員)は間違いなく廃止されるでしょう。
2020年1月現在、札沼線の運転は札幌運転所、苗穂運転所、石狩当別駅が担当しており、札幌運転所は桑園~北海道医療大学間、苗穂運転所については全区間のツーマン列車(臨時列車を含む)を担当しています。
一方、当駅に所属する運転士(主任運転士を含む)の乗務範囲は札沼線石狩当別~新十津川間に限定されており、しかも区間運用のワンマン列車にしか乗務しません。
末端区間廃線後の札沼線は桑園~北海道医療大学間28.9kmが残るのみとなり、わざわざ運転士の配置を石狩当別駅に残すには微妙な距離と言わざるを得ません。

なお、石狩当別駅運輸はJR全線で唯一となった「駅乗務員」であります。
明治期の国鉄では機関庫主任(後の機関区長)の指揮管理下に動力車乗務員を置く一方、駅長の指揮管理下に列車乗務員(車掌・列車給仕・荷扱手・制動手など)を置いていました。
それが1914年3月の「運輸従事員服務規程」施行を以って列車乗務員は駅長の指揮管理下を外れ、全国各地に列車従事員詰所、車掌監督詰所、車掌室といった現業機関が設置されました。
これこそが後年の車掌区に繋がっていく訳ですが、1950年代後半になると閑散線区の駅に車掌を置き、「駅乗務員」とするケースが増えてきました。
そして分割民営化後は石狩当別駅や追分駅のように運転士を配属する駅が現れ、道外のJR線でもローカル線区の合理化が進むにつれて駅所属の運転士が見られるようになりました。
しかし更なる合理化で人員削減が為されたり、或いは周辺の乗務員基地に移管するなどで駅乗務員は減少に転じ、道外に最後まで残っていた紀勢本線紀伊長島駅の運転士も2012年3月を以って廃止されています。
つまり石狩当別駅の運転士は今やJR最後の駅乗務員。
札沼線末端区間の廃止は組織体制の面でも、一つの時代の終焉になるかも知れません。


JR東海 札沼線 石狩当別駅運輸 石狩当別駅乗務員 JR西日本
石狩当別駅16

ちなみに駅南口の東側には・・・


石狩当別駅乗務員宿泊所 JR北海道 札沼線
石狩当別駅17

一目で鉄道関係の施設と分かる、2階建ての木造モルタル建築があります。


石狩当別駅乗務員宿泊所 JR北海道 札沼線
石狩当別駅18

玄関に掲示された表札を見ると・・・


石狩当別駅乗務員宿泊所 JR北海道 札沼線
石狩当別駅19

「石狩当別駅乗務員宿泊所」と書かれています。
夜間滞泊時に運転士・車掌が宿泊する施設ですね。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅1

駅舎は1994年11月に竣工した鉄筋コンクリート造りの橋上駅舎です。
南口・北口ともに階段とエレベーターが併設されています。
こちらは南口の様子。
駅前ロータリーにバス停が設置されています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅5

こちらは北口。
白樺公園に面しています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅7

旧駅舎が健在だった頃は北口が無く、至近に駅の南北を繋ぐ跨線橋も無いため北側の住宅街に住む人達は不便な思いをしたそうです。
直近で移転した苗穂駅を見ても思いますが、沿線住民にとって橋上駅舎は使い勝手の良い構造でしょうね。
改札口も1箇所に集約されていますし。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅6

南口・北口ともエレベーターの外側に「パブリック通り」と書かれた看板を出しています。
自由通路の愛称ですね。



石狩当別駅21

ちなみに駅舎として一体化してはいますが、自由通路部分の施設管理者はJR北海道ではなく当別町役場です。
玄関には町役場が「お知らせ」を掲示しており、閉鎖時間(0:20~5:00)を明記しています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅8

エントランスの階段は勾配が緩やか。
ホールの中心に洋風の街灯が1本ずつ立っています。
この時は清掃のおばさんがせっせと窓ガラスを拭いていました。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅9
札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅10

2階廊下の様子。
幅員が広く、北口側にトイレがあります。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅 当別高等学校
石狩当別駅15

トイレ前には当別高校の掲示板が設置されています。
開いた本を模した看板には学校生活に関する貼り紙が出ています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅11(自然)

廊下東面の壁には4枚のステンドグラスがはめ込まれています。
南口側から1枚目の表題は「自然」。
緑豊かな樺戸の森林が描かれています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅12(歴史)

2枚目の表題は「歴史」。
岩出山伊達家の入植に始まる当別開拓の歴史を表現しています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅 ステンドグラス
石狩当別駅13(国際交流)

3枚目の表題は「国際交流」。
当別町内南西の太美には「スウェーデンヒルズ」という北欧風の街並みを持つ住宅街があります。
この住宅街は元々、当別を訪れた駐日スウェーデン大使が「ストックホルム郊外の景色にそっくりだ」と評した事がきっかけで1979年より開発された街です。
スウェーデンのグスタフ国王も「日本との交流を深めたい」と予てより願っており、1990年3月には国王自らスウェーデンヒルズを来訪されました。
このステンドグラスは40年続く当別町とスウェーデンの交流を表しており、高らかにはためくスウェーデンの国旗も描かれています。


札沼線 石狩当別駅 橋上駅舎 学園都市線地区駅
石狩当別駅14

4枚目はタグが欠損しており表題不明。
公園で遊ぶ子供達の姿が描かれています。


有備館駅開業10年事業ヘッドマーク JR東日本 陸羽東線 岩出山町民号
石狩当別駅22

廊下には「当別町・蘇れ大地の侍・岩出山町」と書かれたヘッドマークも飾られています。
これは当別町民のルーツ、宮城県玉造郡岩出山町の閉町(2006年3月合併/現:大崎市岩出山)と陸羽東線有備館駅の開業10周年を記念し、同じ祖先を持つ岩出山町と当別町の親睦を深めるべく2005年11月に運転された貸切列車のヘッドマークです。
この時、岩出山町民60名から成る「岩出山町民号当別町親善訪問団」が貸切列車に乗って当別町を訪れており、当別町民からの熱烈的歓迎を受けながら伊達邦直移住記念碑に足を伸ばしたと言います。
両町の絆を感じさせるヘッドマークが駅構内に飾ってあるのは嬉しい限りです。


長くなったので今回はここまで。


※写真は特記を除き2019年6月9日撮影
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最終更新日 : 2020-01-21

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